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[小説 時] [160 清算]

160 清算

 急に肩が軽くなって、突然、男は、目の前を横切るように歩き出した。驚く程しっかりとした足取りだった。何処へ行こうとしているのだろうか、・・・。

 しかし、次の瞬間、・・・街中に響き渡るような、雪の崩れる音がして、男は側溝に転げ落ちた。後を引かない鈍い音だった。

 静かな街を憚るような冷たい水の音と、聞き取れない程に微かな男の声が、明りの届かない黒い穴から聞こえて来た。男は這い上がるための手掛かりを捜すのに必死だった。暗がりの中で微かにしか見えないその顔は、つい今しがた迄の自分の努力の結果に驚いているように見えた。腕を伸ばしてみると、すぐに男の手は触れた。その冷え切った手は、助け求めていると云うよりも、未知の世界への道連れを欲しているかのような感触だった。思わず手を引いた。

 しかし、それは執拗に絡まり付いて、容易に振り解くことはできそうもなかった。思い掛けない程の力だった。引き上げようと力を入れてみた。水を含んだ男は鉛のように重かった。

 何度か、口を動かしているように見えることがあった。何を言いたかったのだろう、助けを求めようとしたのだろうか、・・・いや、そんな筈はない、・・・。恐らく、これ以上歩き続けることを拒否しようとしたのに違いない、この氷のような水でしか、今までを清算することはできないのだと云うことを、悟ったのに違いない、・・・。事実、自らは全く動こうともしなかった。

 もう話す必要はない、話すことは何もない、・・・誰も、お前の話を聞いてはいない、・・・誰も、・・・お前を必要とはしていない!・・・手を離せ!・・・もう少しだ、動くんじゃない、・・・もう、これ以上動くんじゃない、・・・!

 やっとの思いで手を振り切ると、男は、何もかもを諦めてしまったかのように、顔を伏せた。

-Aug/1/1999-

・・・つづく・・・



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