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[小説 時] [89 選択]

89 選択

 モデラート。・・・折角の陽が沈んでしまう。
 アンダンテ。まだ時間はたっぷりとある。そうでしょう?
 そうだね。・・・少なくとも、今日は・・・。
 久し振りなのよ。・・・此処には、わたしの欲しいものが、全部揃ってる。眺めが良くて、暖かくて、座り心地の良い椅子、気の置けない時間、美味しいコーヒー、そして、何んと云っても、あなた、・・・。もう、他には何も望むものが無い、・・・。
 早く背中の荷物を降ろそう。肩が軽くなれば、楽になるよ。・・・その大きそうな荷物の中身がどんなものか、それを知りたい。
 あなたが一番良く知ってる筈よ。
 見当は付く、・・・が、確かなことは聞いてみなければ分からない。
 重いのよ、とても。重くて、立ち上がれないの。手を貸して貰えるわね?
 その心算で此処へ来たんだ。
 載せられそうね。・・・ア・テンポ。
 近くにホールがあるよ。又、聞いてみたいね。
 最近はあまり弾いてないの。きっと、指が動かないでしょうね。
 誰に聞かせる訳でもないんだし、そんな心配はいらないよ。・・・それに、最初の音さえ思い出せば、それから先は指が勝手に動いてくれるさ。身体は、想像するよりもづっと記憶力がある。
 借りて貰えるなら、今度は小さいホールにしてね。あまり広過ぎるのは、何んとなく落ち着かないもの。
 そうしよう。
 あなたの新しい曲を弾いてみたいな。
 後で見て貰う心算だよ。
 楽しみね。
 気に入って貰えるかどうか、・・・。
 あなたがわたしのためにに書いてくれるものなら、何んでも良いの。只、あまり凝り過ぎないでね。一度に八度以上はだめよ。それに、短調も嫌ね。
 それだけの贅沢に応えられるかどうか、心配になって来たよ。
 そんなに贅沢かしら?・・・だって、わたしが弾かなければ外に弾く人はいないんでしょう?・・・そうなれば、その五線譜も只の紙屑よ。
 そうならないことを期待してる。
 今までは、最高のものを期待しながら、じっと、出来上がるのを待つ心算だった。今までは、それができた。でも、もう、できないのよ。・・・最悪の選択さえ避けられるのなら、わたしは、もう最高のものを望まない。

-Jan/18/1998-

・・・つづく・・・



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