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[家康の関ケ原][第八章 慶長5年9月15日、関ケ原]


このページは【関ケ原合戦のすべて】【徳川家康のすべて】他を参考にさせていただきましたが、一部は推定も含んでいます。そのため、他の資料と違いがある場合もありますので、ご了承ください。
兵力数は、黒文字が実動兵力数、薄文字は非戦闘部隊兵力数を表します。当然のことですが、兵力数については、損耗を考慮に入れておりません。


夜明け前

14日甲寅(1600年10月20日)

家康は大垣北西の赤坂に到着。
軍議の結果、中山道を西進し、関ケ原・不破の関・近江を経て、大阪を目指すことを決める。

三成・宇喜多秀家小西行長島津義弘隊は、東軍が西進するとの情報を得ると、関ケ原で東軍の西進を阻止するため、急遽、夜陰に乗じて南宮山南麓の牧田川沿いに、関ケ原を目指した。

15日乙卯(1600年10月21日)午前五時

最後尾の宇喜多秀家隊が到着、西軍は中山道を見下ろす天満山南麓(関ケ原の北西)に布陣を終えた。
既に、西軍の小早川秀秋は松尾山に、毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親は南宮山東に布陣していた。

その頃、濃霧の中を福島正則隊を初めとする東軍の先鋒が関ケ原に到着、家康は桃配山に着陣した。

関ケ原周辺に結集した両軍の動員数は、ほぼ拮抗しているが、東軍八万八千余が中山道に沿って東西に布陣しているのに対して、西軍は正面に三成以下の五万四千余、東軍の退路を塞ぐように南宮山に二万六千余が布陣した。


開戦

午前八時

関ケ原を覆っていた霧が引き始める。

井伊直政宇喜多秀家隊に発砲、東軍先鋒の福島正則は、遅れまいと、宇喜多秀家隊に対し一斉射撃を浴びせながら突撃する。

午前九時

三成・島勝猛・蒲生郷舎隊と黒田長政細川忠興加藤嘉明・金森長近隊が交戦。

宇喜多秀家隊に福島正則・松平忠吉隊が攻撃を始める。
松平忠吉隊は、後、島津義弘・豊久隊に当たるため北転。

古田重勝・織田有楽隊は小西行長隊を攻撃。

大谷吉継隊に藤堂高虎・京極高知隊が攻撃を始める。寺沢広高隊がこれに続く。
大谷吉継隊は、小早川秀秋の後背に備えて兵の一部を割いていた。

福島正則隊に寺沢広高隊が加わり、宇喜多秀家隊と激戦を続けている。

家康は、近習を率いて本多忠勝隊付近に前進。

午前十時

三成、島津義弘に応援を要請するが、拒絶される。

西軍、松尾山の小早川秀秋隊、南宮山の毛利秀元隊らに参戦を促すための狼煙を上げるが、いずれもこれに応ぜず。

午前十一時

家康は、一進一退の戦況に苛立ち、桃配山から陣場野に本陣を移す。

島津義弘隊は、松平忠吉・井伊直政隊の攻撃に対して反撃する。

大谷吉継隊は、藤堂高虎・京極高知隊を追い藤川を越える。


大勢決す

正午

家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加える。
去就に迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる。

小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。

大谷吉継は、予め小早川秀秋の後背に備えていたため、一時は小早川秀秋隊を押し戻すが、この動きを見て、寝返った赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治隊の攻撃を受け、大谷吉継隊は後退。
戸田重政・平塚為広は討ち死に、大谷吉継も自刃する。

午後一時

大谷吉継隊が全滅したとの報を受け、宇喜多秀家小西行長隊は、総崩れとなり伊吹山方面へ敗走する。

福島正則隊は、宇喜多秀家隊の敗残兵を追撃する。

本多忠勝隊が、三成隊を攻撃する。

三成隊は総崩れとなり、三成は北国街道を敗走する。

午後二時

島津義弘隊は、家康の本陣前を通り、伊勢街道を退却する。

午後三時

南宮山東麓の安国寺恵瓊・長束正家は、毛利秀元・吉川広家に参戦を促すが、吉川広家は毛利秀元を制して動かない。

家康、首実験を行う。

小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱ら、家康に三成の居城佐和山城攻撃の先鋒を願い出る。


上記の兵力数は【関ケ原合戦の人間関係学】を、合戦の状況は【関ケ原合戦のすべて】を参考にさせていただきました。



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