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[資料 本能寺の変][本能寺想像図]

当時の[本能寺]を復元してみました。
とはいっても、殆ど想像に近いものであることを、予めお断りしておきます。


本能寺想像図



本能寺の位置と敷地について

とありますので、これに従い一町(約100-120m)四方としました。


本能寺の周囲について

とあるところから、東西には川、南北には堀が巡らしてあったと考えられます。
また、南北の堀は、敷地内の湧水を利用するか、東西の川から水を引き入れるかのいずれかと思われますが、ここでは後者としましした。

更に、上杉本洛中洛外屏風([永徳と障屏画 桃山の絵画・工芸2][〈国宝〉上杉家本洛中洛外図大観])、[洛中洛外 環境文化の中世史]の都市図により、

がありました。


本能寺の建物について

を参考に

四棟(瓦葺入母屋造二棟、板葺入母屋造一棟、板葺切妻造一棟)、
[上杉本 洛中洛外屏風(永徳と障屏画 桃山の絵画・工芸2)]の本能寺を参考に[渡廊下]、
[信長公記]を参考に[厩]

を描いてみました。
なお、中村昌生著[信長の頃の本能寺]に[西方の土塀で画された一郭には、]とありますが、[上杉本 洛中洛外屏風]を見ると、西洞院大路や四条坊門小路(蛸薬師通)の土塀とは、違うような気がします。そのため、ここでは[土塀]ではなく[渡り廊下]としました。


明智勢の侵入路について

[本城惣右衛門自筆覚書]の述懐です。
(本能寺の変関係の部分を、[本城惣右衛門覚書]に掲載しましたので、ご一読ください)
ここから、斎藤内蔵介(助)子息と二人の小姓、三宅弥平次(明智秀満・左馬助)と二人の母衣衆が北の方から討ち入ったことが分かります。
また、[捕らえた女を斎藤内蔵介(利三)に渡した]とありますから、斎藤内蔵介は南から侵入したと推定できます。

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