本能寺・妙覚寺襲撃の謎 目次



本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その12

<私の「本能寺の変」論を系統分類するとどうなるか?>

私の「検地反対一揆」説なる発想は歴史学者・朝尾直弘氏の文章に触発されたものです。
けれどもこの発想を得てよりこのかた、この結論は動かさなかったものの、少なからず気持ちは不安定でした。
というのは自分の結論がどういう系統のものか判らなかったからです。
一昔前は光秀個人に対する精神病理学的分析が主流でした。
現在は「高松から迅速に京へとって返した秀吉が怪しい、いや足利義昭が光秀を"埋火(いけび)"の如く織田政権の中に温存し、裏で糸を引いていたのではないか? いや光秀と朝廷との間に・・・」とかと喧しく展開されています。
このような状況であるのに「本能寺の変は丹波武士団による検地反対一揆である」などという考えを述べるのは余りにもスットンキョウに映ります。
私ですらそう思います。
そんな中、歴史読本「完全検証・信長襲殺」所載の後藤敦氏執筆「本能寺の変 学説&推理提唱者検索」を読み、自分の説がどういう系統のものか判ったのです。
後藤氏はきめ細かい分類を精力的に行っておられます。諸説分類表の大項目・中項目は次のようになっています(歴史読本「完全検証・信長襲殺」111ページ)

    A 光秀単独犯説
     1 積極的謀反説
     2 消極的謀反説
     3 名分存在説
     4 複合説

    B 主犯存在説・黒幕存在説
     1 主犯存在説
     2 黒幕存在説
     3 黒幕複数説
     4 従犯存在説

    C 関連する諸説
     1 信長の対朝廷政策との関連
     2 家臣団統制との関連
     3 信長自滅説
     4 信長不死説

私の説をあえて分類するならば

    「C 関連する諸説」の中の「2 家臣団統制との関連」

に分類分けできます。
ここでは歴史学者・三鬼清一郎氏の考えがかいつまんで紹介されています。
三鬼氏の所論・大意は次の通り(論文「織田政権の権力構造」 吉川弘文館刊「織田政権の研究」所収、102ページ)

    本能寺の変 : 信長は、(1)国人層を家臣に編入する場合、(2)彼らを知行替えして在地から切り離し、(3)被官として直接に把握することが出来ず、(4)そのままの形で重臣層の与力として参陣させざるを得なかった。(5)重臣層も、下部の動きに規制され、みずからも在地領主としての属性から、信長に対しても、(6)時として独自の行動をとることがあった。(7)畿内支配においては、伝統的に寺社本所勢力が強く、(8)幕府の奉公衆・奉行人層の潜在力は、侮りがたいものを持っていた。(9)これらの階層を完全に掌握するには、なお相当の時日を必要とした。こうした矛盾の中に織田政権が自滅する原因が潜んでいたものと思われる。
この短い文章の中から幾つかの字句について『ノート』と関連づけをしてみます。

(1).国人層を家臣に編入する場合

    『訂正・加筆』 32ページ、上段注。
      "天正十年の四国侵攻に際し、信長は信孝に書状(一〇五二号)を与え、この中で「国人(土豪)の忠義かどうかを究明し、存続させるものと追放するものとの処置を適性にし、政治などを厳重に申し付けよ、万事三好康長(織田方武将)に対し君臣・父母の思いをし奔走することが忠義である。よくよく心得よ」と指示しています。"

    彼らを存続させるか追放するかの権限を持つものとして臨んだとしても、存続される事を認められた(安堵状をもらい受ける)国人は以前と同様に(そのままの形態で)在地領主として領民に臨み、彼らを直接に支配し、更に生産に介入し一定の独自性(独立性)を持ち続ける。未だに彼ら独自の存立基盤を持っている。その土地に密着している。
    これが中世世界のあり方だった。これでは家臣を直接把握しているとはいえない。

(2).彼らを知行替えして在地から切り離し

    『訂正・加筆』 27ページ。
      "天正13年(1585)閏8.19 筒井定次、坂本滞在中秀吉に呼び出され、伊賀上野への国替えを命じられる。この日帰国する。即日、受領使(伊藤掃部頭義之「筒」)大和に下向し、郡山城の詰め城(高取城)を公収する。民衆「右往左往」する。この時期、諸武将の領地替えが命じられる(堀尾直吉、羽柴秀次、堀秀政、高山重友、中川秀政、前野長康、蜂須賀家政、加藤作内光泰、生駒甚助)
      同閏8.24 筒井定次とその家臣団、伊賀上野へ向かう(この間、わずか六日間)。家臣団のうち定次とともに伊賀への移住を決心した者もいたし、かたくなに先祖伝来の田畑がある本貫の地(一所懸命の地)にとどまって帰農する者もあった(「筒」)。また、大和大納言秀長に仕えた者もおり、各々、その選択を迫られる。一方、移住先の伊賀上野において土豪等は獺瀬城に拠り、定次等の入部に反抗する。"

    定次は秀吉から国替えの命令を受けてわずか6日後に上野へ向かわなければならなかった。
    一所懸命の地、苗字の地、諸々の地縁、菩提寺その他から一切の関係を絶たれる。
    こうしたことは中世の社会では考えられないことだった。
    このような領地替えが行われるには検地が既に施行されていることが前提となる。

(3).被官として直接に把握することが出来ず

    『訂正・加筆』 33ページ。
      (天正八年)十一月七日、(筒井)順慶は大和国中一円知行を命じられました。そして、織田政権は大和郡山へ上使を派遣し、一旦城を接収した後、改めて順慶に郡山城を渡しました。この時点既に徴出は終了しており、順慶は織田政権の大和における代行者に転化したと把えられ、後の世にいう「当分の領主・一時の領主」という性格を与えられるのです。

    直接把握するとは、検地を媒介として被官と在地との直接的関係を切断し「当分の領主・一時の領主」「鉢植えの領主」にするということ。

(4).そのままの形で重臣層の与力として参陣させざるを得なかった

    『訂正・加筆』 69ページ。
      (天正七年)9.22 信長、信雄に書(八四二号)を与え、伊賀侵攻の敗績を責める。「武功夜話」は次のように伝えています。
      織田信雄が率いる伊勢の軍勢が荒木攻めのために摂津太田郷に在陣していた時、領国伊勢と伊賀の国境において一揆騒乱が生じ、急拠、信雄は摂津表を引き払い帰陣することになった。早々に退治出来るものと安易に考えていたところ、伊賀表の国衆の一揆は意外に手強く手間どってしまった。そうしたところへ上方から「摂津表に着陣あるべし」と陣触れが相達したものの、信雄はこの次第を信長様に報告せず、更には敵の誘いに乗じ思わず深入りをして大敗してしまった---この信雄の軽率を父信長はきびしく叱責したのです。

    ここには書かなかったけれど「摂津に着陣あるべし」との信長の命令を信雄が無視した形になったのは、伊勢の土着の土豪達(信雄の家臣団)が摂津表へ向かうのをいやがったから・・・と信長は見た。
    土着の土豪達は他国の(天下統一に関わる)ことよりも自分の領地の方(私事)に重大な関心がある。

(5).重臣層も、下部の動きに規制され

    (4)と同じ。重臣層=信雄、下部=伊勢の土豪。信長は折檻状の中で次のように言っています。

    "上方(ここでは摂津)へ出征となっては、伊勢国の武士・百姓が思い負担に難渋するであろうと考え、隣国の伊賀を攻めるべきだとの意見があるのを幸い、国内で戦争があれば他国への出兵は逃れられるとの意見に同意し、実は有りていにいえばお前は若年ゆえ伊勢の老臣達に言いくるめられて本当にそうだと思いこんだのであろう"
    (参考文献:朝尾直弘氏「将軍権力の創出」40ページ 岩波書店刊。奥野高広氏「織田信長文書の研究」No.843文書解説)

    一方、朝尾直弘氏は「本能寺の変」をこの(5)の側面から言及して居られる。つまり氏は次のように述べておられます。

      信長のように配下の大名の所領支配にまで干渉する「武者道」とのあいだに、するどい矛盾を有していた。すくなくとも、かれ(光秀)の家臣団にはそうとうな抵抗があったと考えてよい。光秀が家臣に押されて決意したとすれば、かれは信長のように家臣団の変革を遂行することが出来なかったのであろう(『訂正・加筆 その二』 21ページ、小学館発行「日本の歴史8 天下一統(1988年)」153ページ)

    注意を怠るとこうした文章は読み飛ばされやすい。
    老婆心ながら一言するとこの中の「信長のように配下の大名の所領支配にまで干渉する」とはストレートにいえば「検地政策」のことなのです。
    『訂正・加筆 その二』の21ページと22ページ に引用した朝尾氏の二つの文章を読み比べれば明らかなことなのですが、どうも読み比べる労をとってくださらないようなので、再び老婆心までに書いておきます。

    『訂正・加筆 その二』 22ページの最後の文章を三つに区切ってみます。

    1. 検地に対する
    2. 給人(武士団)
    3. 抵抗の強さを物語っていたと評価できるかもしれない

    『訂正・加筆 その二』 21ページの文章を三つに区切ってみます。

    1. 信長のように配下の大名の所領支配にまで干渉する「武者道」とのあいだにするどい矛盾を有していた
    2. かれの家臣団には
    3. そうとうな抵抗があったと考えてよい

    このように文章を分解してみれば、『訂正・加筆 その二』 21ページにある(1)の文章は「検地政策」と置き換えてよいことが分かるでしょう。

(6).時として独自の行動をとることがあった

    (4)と同じ。「天下の大事」をないがしろにし(信長の命令に背き)、「私事」を優先させる行動をとる。

(7).畿内支配においては、伝統的に寺社本所勢力が強く

    『ノート』ではこの点につき検討することは出来ませんでした。私の基礎知力が足りないためです。
    本格的な研究論文を手引きにするしかありませんが、「多聞院日記」による興福寺の例(大和の城割り・検地)、および中村吉治氏の"検地=旧制度破壊"の論評 『訂正・加筆 その二』 19ページを参照してください。

(8).幕府の奉公衆・奉行人層の潜在力は、侮りがたいものを持っていた

    『訂正・加筆』76ページ。
      染谷光広氏が触れておられるように*1、明智光秀の家臣団は旧幕府の色彩が濃厚でした。光秀白身が室町幕府と深い関係にあったこと、足利義昭が京を追われた時、幕臣の一定部分が光秀の摩下に入ったことは周知の通りです。又、丹波の豪族総体についても、彼等が足利将軍家に強い親近感をもっていたことが指摘されています*2。そしてそれに劣らず足利将軍家と深い関係にあったのが斎藤内蔵助利三でした。
      (*1 「本能寺の変の黒幕は足利義昭か」(別冊歴史読本---明智光秀)
      (*2 芦田確次氏「丹波戦国史」)

    光秀の家臣団は旧幕府の色彩が濃厚だった。
    その実体として旧幕臣の一定部分が光秀の麾下に組み込まれたこと。丹波の武士団が旧幕府に親近感を抱いていたこと 『訂正・加筆』 11-12ページ 、斎藤内蔵助が室町幕府と深い人脈を持っていたことなど。
    と同時にそうしたこと以上に重要なのは彼らの意識・精神世界・武士道倫理。社会の空気。
    更にそれ以上に着目すべきなのが(実生活の面に関わる)幕府を権威の源泉とする裁判の伝統(伝統的な幕府法による事務)、文書の発給・その伝統的機能(これら伝統的な形式にのっとって社会が運営されていたこと)が関わってくる。
    それらは二百年以上に亘って足利将軍家の存続とともに形成されてきたものであること。
    社会はその実際面・形式面において幕府を必要としていた。
    永禄期に至っても室町幕府は強靱な生命力を持っていた。
    これは今谷明氏が強調するところで、以上危なげながら触れた点については今谷明氏の「戦国期の室町幕府」(角川書店刊、日本文化2、1975年)を参照していただきたい。

(9).これらの階層を完全に掌握するには、なお相当の時日を必要とした

    豊臣秀吉は何を機軸にして、天下を統一したか?
    言うまでもなくそれは太閤検地。
    秀吉は征服地を拡大するごとに検地を行って、土地に対する権利関係を明確にした上で石盛(法定収穫量)をつけ、家臣に知行地として給付した(=家臣を完全に掌握した=彼らの主体性の物質的根拠を剥奪した)
    この「知行地を給付された家臣」は旧来の「家臣」とは全く性格を異にする。
    比喩的に言えばそれまでの家臣とは今でいう中堅企業・中小企業の"社長さん"。
    それ以降の家臣とは大企業に勤務する"役員"あるいは"社員"。検地を媒介にして、いつ首にされるかもしれない存在になってしまったのです。
    秀吉によって"社長さん"から"社員"的存在にさせられる矢面に立ったとき、彼らのうち全部が全部唯々諾々とその意向に従ったのではない。
    彼らはさまざまに抵抗した。その抵抗として「検地反対一揆」があった。
    信長期においてもそれは起こった(天正9年4月、和泉・槙尾山施福寺の例、 『訂正・加筆』 38ページ
    検地は施行される側としては極めて過酷なことだった。
    施行する側もそれが文字通りに過酷であることを認識していた。
    だからして信長・秀吉は征服地においては検地を断固として強行し得ても、自分の身内・縁者が縄張りを張っている尾張においては検地施行を躊躇せざるを得なかった(遠慮した)(同上三鬼論文、78ページ)

以上述べてきたことに踏まえ、三鬼氏のこの視角を「天正8年から10年までの社会変動」に適用して論理を進めるならば、「本能寺の変は(丹波武士団による)検地反対一揆である」という結論に帰着する・・・と私は考えるわけです。
念のため検地施行の経過を書いておきます。
播磨→摂津・河内→大和→和泉→丹後→丹波。
検地年表を見ると更に山城、近江の二国が付け加わります。

学者の先生以外にこのような視角を述べた人はいなかっただろうか? と考えました。
そこで私は経済評論家・堺屋太一氏に期待を寄せました。
氏は政治・経済学的分析を基礎に現代世界の変動・変化をダイナミックに解き明かす人であるからして、氏の著作「鬼と人と<信長と光秀>」(PHP文庫)にはきっと他の文筆家達には見られない卓見があるに違いないと期待したのです。
さっそくその本を購入したのですが、読み進うちに"おや・・・!?"となってしまいました。
他の人と似たり寄ったりだったのです。
氏の本領・本分とも言うべき経済分析(あるいは社会史学的分析)が抜け落ちているのはどうしたことか? 心底私はがっかりしました。

その後、この線に近いことを部分的に述べた人として上田滋氏が目に留まりました(PHP文庫「本能寺の変」)
大意を引用すると次のようになります。

  • 信長は畿内とその周辺がほぼ完全に織田家の版図に入った今、過渡的な体制から恒久的な政治体制へ変革しようと臨んだ。そこで全国へ広げる意味を込め模範として大和検地(奉行は光秀と滝川一益)を行った。・・・この成功により、同じ方針を丹後にも適用した。検地実施は軍隊要員確保のための調査であった。・・・光秀にはこうした検地は間接にせよ下層の農民をさらにがんじがらめに収奪抑圧するものになるのでは、と内心に反発抵抗を覚えたかもしれない(上田滋著「本能寺の変」188ページ~)
  • 過渡期の今は、たとえば秀吉の本領は長濱で支配地は播磨、また光秀の本領は坂本で支配地は丹波というような形態になっているが、いつか全国が平定され信長の絶対権力が反抗を許さぬものとして成立したとき、大領主を廃止し、あるいは無力化して事実上、領主制は知事制に変えられるのではないか(上田滋著「本能寺の変」216ページ~)

こうした歴史事実を摘出・蓄積し、視角をさらに推し進めたとしても、これを「本能寺の変は丹波武士団による検地反対一揆である」という結論に転換するにはそれ相応のエネルギーが必要になると思います。

ともあれ、自分の到達した結論がどういう系統に属するのかが判り、少し気持ちが落ち着きました。

(H10.11.7)



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