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[小説 時] [113 止揚]

113 止揚

 それ程明るくはない密室の、乳白色をした煙草の煙の中で、人は誰もお互いの顔を知ろうとはしなかった。取分け、連れが来る当てもない一人の客にとっては、自分の瓶の酒の減り具合いと、グラスの中の酒の色具合いだけが関心事だった。酒を飲むことでしか「今日」の或いは「今まで」の自分を咀嚼できない人達にとって、他人の顔は煩わしく不愉快なものであるに違いなかった。

 一人の客は、連れのいる客とは違って酒の肴に事欠くことはなかった。只、酒を眺めていればそれで良かった。グラスの中で酒が創り出す文様は、自分の人生が織り成して来た文様と相似なのだと云うことを知っていた。そして、そうした客程、失意とか、放心とか、不満とか、・・・退屈とか、単調とか、倦怠とか、・・・自分に関わり、拘りながら、しかし、自分ではどうすることもできないもの、・・・焦燥とか、不安とか、憔悴とか、・・・酒でなら洗い流せると信じていた。そうすることで「明日」の、或いは「これから」の自分を止揚できると信じていた。そのために、僅かな財布の中身の一部を代償として払い続け、そして、自分の負っている傷が深ければ深い程、安らかな心地で席を立つことができると、・・・信じていた。

 店は混雑していた。

 珍しいですね。
 この時期になると何時もこの通りさ。
 そうですか。もうそんな時期なんですね。
 少し待って・・・。これ、・・・置いとくからね。
 お構いなく。これさえあれば、もう贅沢は言いませんから、・・・。
 何か欲しいものはある?
 いえ。これだけで、・・・。

 氷を入れ、酒を注いだ。新しい瓶は、そう度々は聞くことのできない、あの快い音を立てた。口から迸り出る酒のざわめき、氷の形や大きさを確かめるようにゆっくりと降りて行く酒の不安、溶け出した液体の戸惑い、氷の驚いたような鳴き声、煙草の青白い煙と氷の戯れ、・・・扉が開けられる度に狭い階段を這いながら届いて来る外の喧噪、賑やかな一団の取り留めもない話し声、・・・。

-Mar/29/1998-

・・・つづく・・・



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