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[家康の関ケ原][第七章 関ケ原合戦前夜]


西軍、もたつく

慶長5年7月25日丙寅(1600年9月2日)、家康率いる上杉討伐軍に加わっていた豊臣家の諸将が、続々と西上を開始し始めた頃、西軍の動きはどうだったのでしょうか。

同8月1日壬申(1600年9月8日)、西軍の宇喜多秀家島津義弘小早川秀秋らが、攻囲していた伏見城を陥れます。
しかし、堅城である上に鳥居元忠以下の必死の抵抗に合ったとはいえ、錚々たる大軍を催しながら、10日以上も浪費したことは、西軍の中核となるべき宇喜多や小早川らに、初めから戦意がなかったのではないかと、疑いたくもなります。

同様に、一万五千の兵を持って臨んだ細川幽斎(藤孝、細川忠興の父)の丹後田辺城攻めでは、結局関ケ原での合戦が終結するまで2ヶ月近くも、漫然と攻囲を続けるといったありさまで、緊迫感が全く感じられません。
もっとも、攻囲軍だけではなく、それが西軍全体の雰囲気でもあったようです。

それに引き換え、鳥居元忠以下の伏見城守備隊は、寡兵ながら必死の抵抗を続け、全員が討死にしました。

更に、西軍は、先に人質を差し出して家康に屈した前田利長に対し、大谷吉継を主将とした北陸方面軍を派遣します。
これも、東軍の主要は関東にあるわけですから、必要であれば最小限の押えを残し、多くが東征して主不在の伊勢・美濃・尾張・三河・遠江と、急ぎ東進すべきであったでしょう。
増田長盛らの密告によって、西軍の動きを逐一把握していた家康に較べて、東軍が反転西上し、この頃には眼前に迫っていたということすらも、西軍は気付いていなかったとされます)

三成もそのつもりではあったようです。
しかし、同8月初めに伊勢・美濃へは進出したものの、相変わらずのもたつき具合で、美濃の墨俣城に島津義弘を入れた頃には、既に、福島正則以下の東軍の諸将は三河に戻っており、同8月23日には東進の前線となるべき岐阜城が、福島正則らの攻撃を受け落ちてしまうという状態でした。


福島正則、踊る

慶長5年8月14日乙酉(1600年9月21日)、西上してきた豊臣家の諸将は、福島正則の居城清洲城に集結します。

その頃、家康は膝元から追い出した豊臣諸将のことなどは眼中にないかのように、江戸城に籠り祐筆を侍らせて、遅れてはならじと擦り寄る諸将や、いまだ去就に迷う諸将に、所領加増の餌を撒き散らしながら、少しでも自らに降りかかる火の粉を減らそうと、書状を書きまくっていました。

こうしてなかなか腰を上げない家康に対し、業を煮やした福島正則は、「劫の立替(囲碁で捨て石を打つこと)に遊ばされ候」と怒ります。
しかし、家康が初めからそのつもりであったことに、福島正則は気付くべきでした。

同席していた細川忠興は、『我々を先に西上させ、あとで「軽々と御上りなされるだろう」と述べたあとで、・・・「奥意恐ろしき事は、太閤様より十増倍よりもこわき天下持ちと、我等に於いてはか様に存じ候」(川角太閤記)』と述べたといわれ、家康の態度に疑問を抱いていた者もあったようです。【関ケ原合戦の人間関係学】
それに対し家康の使者は、「おのおのの手出しなく候ゆゑ、御出馬なく候、手出しさへあらば急速御出馬にて候わん(おのおの方が手出しをしないために、家康は出馬できないでいる、手出しをされるなら急ぎ出馬されるだろう)」と述べます。

東軍の総大将として率先指揮しなければならない立場にある家康が、自らの立場を忘れてしまったかのような口上で、軍監として同席していた井伊直政や本多忠勝さえ驚いたといわれるほどの言いようでした。【関ケ原合戦】

しかし、福島正則は「もっともなこと」と簡単に納得してしまいます。
何が「もっともなこと」なのか判然としませんが、福島正則の豪勇だが思慮に欠ける性格によるところが大きかったでしょう。
しかし、その決断は事実上、清洲城に参集した諸将の行動をも決定することを意味していました。

そして同8月22日癸巳(1600年9月29日)、福島正則・池田輝政ら東軍先鋒隊は竹ヶ鼻城を落し、西軍の前線に当たる美濃岐阜城を攻囲、翌日にはこれを陥れて、赤坂に勢を進めました。
三成の入った大垣城まで、わずか一里(4km)ほどの距離です。

既に、毛利へも小早川へも手を打った家康は、最も気掛かりであった福島正則の決意を、その行動で確かめると、最悪の結果だけは避けられるであろうと確信したに違いありません。
そうなると、このまま座して傍観していれば、三成を倒した後の家康の地位が、相対的に低下することは明らかで、それはどうしても避けたかったでしょう。
勝てるという見通しが立った時の家康は、これまでの戦歴を見れば明らかなように、非常に機敏で果敢です。
こうして、いよいよ腰を上げることを決心し、それまでとは打って変わって、「急いで出馬するから、われわれが到着するまで行動を起こさないよう」と言い出します。

同8月24日乙未(1600年10月1日)、徳川軍本隊を率いる徳川秀忠が、宇都宮から中山道を西に向けて進軍を開始すると、同9月1日辛丑(1600年10月7日)、家康は悠々と江戸を出ます。


三成、苛立つ

赤坂にまで迫った東軍の動きに比べて、西軍の動きは緩慢で、慶長5年8月11日壬午(1600年9月18日)、大垣城に入った三成は、同8月26日丁酉(1600年10月3日)、業を煮やして大垣城を出、佐和山城に戻り、大坂城の毛利輝元に出陣を要請する使者を送り出します。
しかし、この使者が東軍に捕らえられてしまうことになります。
こうした重要な連絡も満足にできないのですから、敵情の収集など及びもつかない、ということでしょうか。

それにしても、西軍の総大将を受けた毛利輝元の動きは、不思議としか言いようのないもので、大軍を大坂城に入れながら、自ら動こうとするわけでもなく、率先指揮することもありませんでした。
そうなると、三成の双肩が全てを負うことになるわけですが、有能な吏僚であっても、必ずしも人望のある人物とは言えなかったとされている三成ですから、三成の指揮に従わない者や、快く思わない者もいて、数を揃えただけの軍という感じだったのでしょう。

そのことは三成にも分かっていたようで、盛んに愚痴をこぼしますが、それさえも家康に筒抜けでした。

とはいえ西軍も、同8月23日甲午(1600年9月30日)には宇喜多秀家が大垣に到着、同9月2日壬寅(1600年10月8日)には、前田利長に当たっていた大谷吉継が、越前敦賀から戻って美濃山中村に布陣、同9月7日丁未(1600年10月13日)には、毛利秀元・吉川広家らが伊勢から美濃に戻って南宮山に布陣、同9月14日甲寅(1600年10月20日)には小早川秀秋もようやく松尾山に布陣します。
こうして、西上して来る東軍を迎え撃つ態勢は整いました。

実は、この毛利輝元の行動には理由がありました。
毛利家の有力家臣である吉川広家は、家康に誼を通じており、東軍に加わるべきであることを主張していました。
しかし、毛利輝元は、同じ家臣の安国寺恵瓊の強い要請を容れ、西軍に加わり総大将を引き受けることにしたのです。
そこで吉川広家は、黒田長政を通じて家康に書を送り、毛利輝元が三成に組みしたのは安国寺恵瓊一人の画策によるものと弁明すると同時に、身を以って、その間の事情を知らなかった毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家らの東軍攻撃への参加を阻止するため、南宮山方面の最前線に布陣しました。

これに対し家康も、「輝元如兄弟申合候間、不審存候処、無御存知儀共之由承、致満足候(毛利輝元公とは兄弟の契りを交わしており、このたびの西軍への加担を不審に思っていたが、ご存知ないとのこと、納得した)」と返書を認めていました。
つまり、毛利輝元の責任は問わないという主旨です。

こうして、大坂城の四万四千を加え六万余の毛利軍は、骨抜きにされていたわけです。


開戦前夜、慶長5年9月14日

一方の家康は、慶長5年9月11日辛亥(1600年10月17日)、清洲に到着。真田昌幸・幸村父子の上田城攻めに手間取り、遅れている徳川秀忠の到着を少しでも待とうとしますが、待ちきれずに同9月13日癸丑(1600年10月19日)に岐阜に至り、翌14日甲寅(1600年10月20日)に赤坂南方の岡山に布陣します。

西上しているとは考えてもいなかった西軍は、家康の到着を知って驚きました。
そこで東軍の様子を探るために、島勝猛・蒲生郷舎は、大垣城西方の杭瀬川付近に出て挑発します。
これに対して、東軍の中村一栄・有馬豊氏が迎え出ましたが、小競り合いの末、夕刻となり両隊は撤収します。

夜に入り、家康が大垣城には手を出さず、関ケ原を抜け佐和山城を落として大坂に向かう、という情報を得た西軍は、降り出した雨の中を、急ぎ関ケ原に向かって発進します。
この情報は、大垣城から西軍をおびき出すために、東軍が故意に漏らしたものとするものが一般的ですが、幾つか疑問があります。

家康は、毛利輝元が豊臣秀頼を戴いて出馬して来ることを、恐れていたのではないかと考えています。
そうなれば、東軍に加わっている豊臣恩顧の諸将の動揺は必死で、一部は西軍に走るものも出てくるであろうことは予想していたはずです。
しかも、家康は、西軍の半数近くに戦意がないことを知っていましたし、三成は大垣城にいます。
今こそ、一挙に佐和山城を落とし、猛攻に耐えている京極高次の大津城を救えば、その先に家康を遮るものはない、毛利輝元の気が変わらないうちに、大坂を窺えるところまで軍を進めておくことが重要、そう考えたのではないでしょうか。

徳川本隊を率いる秀忠の参陣が望めない以上、待つことは西軍に時間を与えるだけで、それは進路を阻まれる危険が増すことを意味していますから、そのためにも、三成よりも早く関ケ原を越える、それが家康の決断だったと考えられます。
つまり、一般に言われている、西軍をおびき出すための東軍の虚報説は、少し不自然な感じがします。

関ケ原での布陣ですが、東軍は、不利な位置にあることに気付いた時点で、隘路にすべての兵を止め置くよりも、せめて垂井付近までは後退すべきでした。
そして、それができなかったのは、大垣に残った西軍が東軍を追うように西へ進んでくる、と考えたからではないでしょうか。
つまり、西軍の動きは、東軍の予想を越え、機敏で適切だったのに対し、むしろ、東軍は西軍の動きを察知できなかったために、結局あのような陣形にならざるを得なかった、とするほうが自然ではないかと思われます。

東軍の圧倒的な勝利という結果から、戦術面でも周到に計画されたもの、とされがちですが、果たしてどうでしょうか。

桃配山の東軍本陣にあった家康は、頻りに左の手の爪を噛み、その指からは血が噴き出ているようだったといわれます。
これは『不平(欲求不満)のときに出る家康のくせ【関ケ原合戦の人間関係学】』で、小早川秀秋が去就に迷っているという情報に接してのことだとされますが、同時に秀忠の遅参や西軍の予想以上の動きなども合わせて、見込みに大幅な狂いが生じたために、思わず爪を噛んだということなのではないでしょうか。

一方三成は、岐阜を失った上に、自らが入った大垣をも越されていましたから、東軍西進の情報に接しなくても、関ケ原まで後退することは検討していただろうと思われます。
東軍が動き出すという情報を得て、予ねてから検討していた転進を実行に移したと考えることもできます。
事実、行動は既に準備していたかのように迅速でしたし、関ケ原でも、慌てて退却した軍の布陣とは思えないものでした。

慶長5年9月15日乙卯(1600年10月21日)、合戦当日の夜明け前、雨が降りしきる中、布陣を終えた西軍の懐に、東軍先鋒の福島正則隊が飛び込んできました。


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