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[家康の関ケ原][第二章 家康の関ケ原までの主要な合戦歴]


これらの合戦は、【徳川家康のすべて】の「家康合戦事典」(青木直己氏)が挙げておられるものの内、[関ケ原合戦]までのものです。


A.寺部城攻略

弘治4年2月、三河国加茂郡寺部城主鈴木重辰は、今川義元に離反して信長に通じました。
これに対して義元は、今川家の人質となっていた元信(家康)に奪還を命じます。
元信は岡崎衆を率いて出陣し、寺部城を攻略、救援に駆けつけた織田勢の水野信元を潰走させるなどの活躍で、義元から旧領の一部を返してもらったといいます。

それまでも岡崎衆は、たびたび義元の先鋒をつとめさせられていましたが、今回は元康自らの指揮による出陣であり、初陣でした。

家康17歳。


B.桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)

永禄3年5月、今川義元は、上洛を目指して駿府を発ちました。
この上洛軍の先鋒隊の中には、人質となっていた元康(家康、元信からいずれの時期にか改名)率いる岡崎衆があました。

義元は、自領である駿河・遠江・三河と順調に軍を進め、同5月18日癸未(1560年6月11日)、尾張の沓掛城に入城します。すでに、元康をはじめとする先鋒隊は、織田方の丸根砦・鷲津砦などを陥落させていました。
それに対する信長は、軍議で篭城を主張する家臣らの意見を振り切り、同5月19日甲申(1560年6月12日)早朝、数人の小姓を従えて出陣、熱田神宮で戦勝を祈願すると、その間に追い着いた将兵二千ほどを引き連れて、中島砦に着陣します。

この頃、快進撃を続けて得意の義元は、田楽狭間で休息していました。
物見の報告を受けた信長は、急ぎ田楽狭間に向い、折りからの暴雨に混乱する義元の本陣に攻め込み、不意を衝かれうろたえる義元を討ち取りました。

今川軍は義元を失って総崩れとなり、将兵は潰走し始めます。
その頃、織田領との前線基地である大高城へ食糧を入れるなど、武田の馬場信房に「海道一の弓とり」と言わしめたほどの活躍を見せた元康(家康)は、多くが駿河に向かって敗走するのを見届けてから、岡崎城に入りました。

ここに元康の12年に及ぶ人質生活が終わり、城主が不在だった岡崎城も主を得ることができました。

家康19歳。


C.三河一向一揆制圧

岡崎に戻った元康は、一度は今川義元の跡を継いだ氏真に、信長誅討をすすめます(単なるゼスチャだという説もあります)が、氏真にその意志がないと分かると、すぐさま信長と和し、三河平定に着手、名も家康と改めます。

永禄6年9月、家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から兵糧米を強制的に徴収したことから、一向宗徒が蜂起しました。
(ただ、この一揆の原因については、独自の勢力基盤を持つ本願寺教団を解体することを目的として、家康が誘発したのではないか、とする説があります。【徳川家康のすべて】「家康家臣団の構成と特質」煎本増夫氏)
これは、寺院にとって既成の権利である「守護不入の権利」を侵すもので、多くの寺院や門徒が呼応し、三河全土に広がりました。
この一揆には松平家の家臣も多く加わっており、抵抗も激しく、翌永禄7年2月、結局、家康は和議を提案し、一揆側もこれを容れて沈静しました。

この時の和議は、一揆に加担した者の本領を没収しない、首謀者を殺さない、寺道場や信者・僧侶はもとのまま、というものでしたが、家康は寺道場を破却し、有力な僧侶を追放してしまいます。
この違約に対して、一揆側が抗議をすると、家康は「もとのままにする」というのは「もとの野原にする」ということだ、とうそぶいたといいます。

こうした領民に対する対応は、その後も変わらず、中西信男氏は【関ケ原合戦の人間関係学】の中で、

「落穂集」は「郷村百姓共をば、死なぬ様に生きぬ様にと合点致し収納申付る様」といったと伝えている。家康の性格には自分が受けた扱いを逆に部下や民衆におしつける傾向がみられる。

と述べておられます。

家康23歳。


D.掛川城攻略

既に松平姓を徳川姓に変えていた家康は、三河から遠江への侵入を繰り返していました。
永禄11年2月、家康は武田信玄と、今川領である駿河・遠江を、大井川を境に分け合うという密約を結びます。
そして、武田信玄は、今川・北条と結んでいた三国同盟を破棄、今川義元亡き後の駿河に侵入します。
今川勢は武田勢の前になすすべもなく、新しい領主今川氏真は掛川城に逃げ込みました。
家康は、これに呼応して、氏真の入った掛川城を包囲しました。
しかし、氏真は北条氏康に武田軍の牽制を依頼します。背後を北条軍にまかせた氏真は、もっぱら家康軍に対したため、家康も掛川城を落とすことはできませんでした。

包囲が長期に及んで、翌永禄12年5月、家康は、駿河を信玄から回復することを条件に、掛川城を開城することすることを内容とする和議を申し入れます。
氏真は、これを受け駿河蒲原に移りました。

家康と信玄は、みごとな連携でこれを実現しました。一方、この後の今川家は、衰退の道を転げ落ちることになります。

それにしても、詳しくは調べていないのですが、信玄と今川領を分割支配するという約束を結んでおきながら、氏真に「駿河を武田から取り戻してやる」というのは、どういうことでしょうか。

家康28歳。


E.手筒山・金ヶ崎城攻め

信長は、室町十五代将軍足利義昭の名を利用して、越前の朝倉義景に対し再三にわたって上洛を促していましたが、そのつど義景はこれを無視しました。
それを理由に、元亀元年4月、信長は朝倉討伐のため、家康に加勢を求めると共に、自ら若狭から越前へと兵を進めます。

これに対して、小谷城主の浅井長政は、六角承禎・承賢父子と共に朝倉救援に立ったのです。

浅井氏・六角氏は京と越前の間にあって、織田軍の退路を塞ぐ形となるわけです。
このため、手筒山・金ケ崎城を落とし、更に進攻しようとしていた信長は、この浅井の違背を聞き、急遽金ケ崎の陣を払い、浅井氏・六角氏の湖東を避けて、湖西の朽木谷を経て、京へ戻ります。

この時、殿をつとめたのが秀吉・家康・蜂須賀正勝らでした。秀吉だけが有名になった「金ヶ崎の退き口」ですが、家康もよく追撃を防いだとされます。

長政は、信長の妹お市の方を妻に迎え入れており、織田家と同盟関係にありました。そのため、信長は浅井氏の違背を少しも疑っていなかったようです。
しかし、浅井氏は一方で古くから朝倉氏とも同盟関係にあり、織田氏と同盟関係を結ぶ際には、朝倉氏を攻めないという一項がありました。信長は、これに違約したことになわけで、浅井氏と朝倉氏の親密な関係を考えると、信長は慎重さに欠けていたといえるかもしれません。
ただ、長政自身は信長との同盟を優先しようとしたようです。同盟破棄に踏み切ったのは、朝倉氏との関係維持を主張した父久政の意見を容れてのこととされています。

家康29歳。


F.姉川の合戦

元亀元年6月、信長は再び浅井・朝倉討伐のため、大軍を率いて岐阜を発ち、浅井氏の支城の横山城を包囲しました。
朝倉義景も救援軍を引き連れて、浅井氏の小谷城に到着します。
一方、信長から助勢を求められていた家康も織田軍に合流し、浅井軍には織田軍が、朝倉軍には徳川軍が当たることになり、両軍は姉川を挟んで対峙しました。

同6月28日甲子(1570年7月30日)早朝、戦いが始まり、初めは浅井・朝倉軍が優勢で、織田軍は大きく後退しました。
そこで、徳川軍の榊原康政らは、浅井・朝倉軍の右翼を急襲し、崩れ始めたところを、体勢を立て直した織田軍が総攻撃したため、浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走しました。
9時間ほどの激戦によって多くの負傷者が出、姉川は血で真っ赤に染まったといわれています。

家康29歳。


G.三方ケ原の合戦

元亀3年10月、武田信玄は、宿願であった上洛を果たすため、大軍を率いて甲府を発ちました。

その武田軍が遠江に迫ってくると、浜松城の家康は信長に対し加勢を要請します。
しかし、信長にとっては、浅井・朝倉との決着が付いておらず、兵を割くことは避けたかった事情がありました。
が一方で、家康は、それまで信長のたびたびの加勢の要請に応えており、武田軍の領内通過を見過ごすことはできないと強く主張したため、やむなく佐久間信盛ら三千の援軍を送ります。
それでもまだ、佐久間らが篭城を勧めるなど、武田勢との戦いを避けたいと考えていたようです。

が、家康はそれらの意見を退け、同10月22日乙亥(1572年11月27日)夕刻、信長の加勢と共に、三方ケ原付近を西進中の武田軍に攻めかかりました。
(武田軍の通過を手をこまねいて見過ごすわけにはいかない、と家康が強く主張したとするものが一般的ですが、武田軍が浜松城に全く手を出さず通り抜けようとすれば、家康は必ず出てくると考えた、信玄の「おびき出し」を狙った策略だとする見方もあります【徳川家康事典】。わたしも、根拠はありませんが、そうではないかと思っています。)

当時、最強といわれた武田軍は、初めから戦意のない織田軍と小勢の徳川軍を、地勢の利もあって難なく打ち破ってしまいます。
徳川・織田勢が潰走する中、本多忠勝の働きもあって、辛うじて浜松城に逃げ戻った家康でしたが、武田軍の追撃を恐れ、思わず馬上で失禁してしまったという話が伝わっています。

この後、信玄は更に西進を続けますが、翌元亀4年4月12日壬戌(1573年5月13日)、上洛の夢を果たせないまま、信州駒場で病没します。

家康31歳。


H.設楽原の合戦(長篠の戦い)

信玄の死の5ヶ月後、天正元年9月、家康は、長篠城を陥れます。
天正3年5月、武田家を継いだ武田勝頼は、一万五千の兵をもって城兵僅か五百の長篠城を囲みました。

城主奥平貞昌は、武田勢の包囲が長引くに連れ、兵糧が不足するなど、城兵の戦意低下が著しく、決死の覚悟で家康に援軍を求めました。
窮状を訴えられた家康は、救援を約するものの、気にかかるのは、信長の救援を受けながら大敗した三方ケ原で合戦や、前年の天正2年5月に高天神城を奪回されたことでした。
家康は、信長に援軍を求めます。
高天神城救援を請けながら間に合わなかった信長は、家康の要請を断れませんでした。

天正3年5月18日丙辰(1575年6月26日)、信長は三千挺といわれる鉄砲と馬防ぎの柵を用意し、徳川軍と合流し、設楽ケ原に布陣します。
そして、連子川沿いに空堀を掘り、土塁を築いて三重の木柵を構えさせました。
この馬防ぎの柵によって、武田の騎馬隊を食い止めると共に、鉄砲隊を3隊に分け、1,000挺ずつを交代に発砲させ、準備から発砲までに時間のかかる火縄銃の欠点を補おうという作戦でした。
勝頼は、これを向かい討つため、長篠城の包囲を解き、鳶ケ巣山以下の砦に守備兵を残して、清井田原に軍を移動させます。
信長は家康の家臣酒井忠次に、手薄になった鳶ケ巣山を奇襲させ、これを落とします。
こうして、退路を断たれた武田軍は、設楽ケ原での決戦を余儀なくさせられました。

そして、同5月21日己未(1575年6月29日)、武田軍と織田・徳川軍の戦闘の火蓋は切って落されました。
武田軍の山県昌景・武田信廉・小幡信貞・武田信豊・馬場信晴らが、次々と鉄砲玉よけの竹束を盾に突撃を繰り返しますが、織田方の鉄砲隊の一斉砲火の前に、屍の山を築いていきます。
開始から4時間ほどで、武田軍の主だった将の多くが倒れ、敗走を始めた武田軍に織田・徳川軍が襲いかかって、かつては最強の名をほしいままにした武田軍団は、わずか8時間あまりの戦闘で崩壊してしまいました。

家康34歳。


I.高天神城攻略

設楽が原での大敗北の一年前、天正2年5月、武田勝頼は遠江に侵入し、小笠原長忠の守る高天神城を囲みました。
家康は、この時も信長に助勢を求め、同6月、信長は自ら軍を率いて遠江に向かいます。
しかし、信長は、前年に浅井・朝倉を倒して3年に及ぶ抗争に終止符を打ったものの、休む間もなく、頻発する一向一揆に対応しなければならない状況にあり、岐阜を離れることは避けたかったのではないかと思われます。
家康は、高天神城に援軍を送ることなく、ひたすら信長の到着を待ち続けます。
そのため、さすがの高天神城も、篭城に耐えられず勝頼の手に落ちました。
信長は、落城の報に接すると、その場で軍を返し岐阜に戻ってしまったといいます。

天正8年3月、家康は、その高天神城を囲むように砦を築き、奪回を目指しました。
長期包囲の態勢を整えて、翌天正9年3月、攻撃を開始します。
高天神城を守る岡部長教は、勝頼に加勢を求めますが、たびたびの出陣で疲弊した軍を動かすことができず、ようやく、翌天正9年2月、勝頼は軍を催しますが、北条氏に阻まれ、戦わずして甲府に戻ってしまいました。
救援の望みが絶たれた高天神城の城兵は、城を出て全員討死しました。

こうして翌年には残っていた小山城を陥れて、家康は遠江を手にしました。

家康40歳。


J.小牧・長久手の戦い

信長が倒れた後の織田家の後継問題を話し合った、いわゆる「清洲会議」では、反柴田勝家の立場を取り、秀吉に同調した織田信雄でしたが、反秀吉派が次々に倒され、家臣の中にも秀吉に懐柔されている者がいるとの噂を耳にして、天正12年3月、信雄は、家康と計って、秀吉に通じていた3人の家老を切り捨てます。

事実上の宣戦布告です。それに呼応するように、家康は8,000の兵を率いて信雄の清洲城に入ります。

秀吉派の池田恒興・森長可らは、信雄の属城犬山城を陥れます。それに対して、信雄・家康方は、酒井忠次・榊原康政・奥平信昌らが森長可を撃退します。
秀吉は、この敗戦を聞いて犬山城に入り、一方、家康は清洲を出て小牧山に陣し、これに信雄も合流。両軍は対峙しました。

睨み合いは続いて、同4月7日癸丑(1584年5月16日)、三好秀次(秀吉の甥)・池田恒興・森長可が、密かに本隊を抜け出て、小牧山を迂回し長久手を通って岡崎城を攻撃しようとします。
これを察知した家康は、自ら主力の殆どを率いて小幡城に移り、榊原康政らが池田恒興らを急襲、池田恒興・森長可は討死、三好秀次は敗走します。

更に両軍対峙は続き、秀吉方が信雄の属城竹ケ鼻城を落せば、家康は滝川一益を降ろすなど、一進一退が続きました。
長い膠着状態が続いて、同9月6日己卯(1584年10月9日)、信雄・家康が秀吉に和議を申し入れます。
ところが、秀吉は家康の次男於義丸(後の秀康)を人質として差し出すよう主張して、成りません。
しかし、伊勢の殆どを失った信雄は、とうとう同11月11日、秀吉に会い、単独で講和してしまいます。

取り残されたのは家康です。そもそも、兵を出したのは信雄の要請によるものでした。その信雄が秀吉と和してしまえば、一人抵抗する理由もなくなってしまいます。
結局、同12月12日甲寅(1585年1月12日)、家康も、次男於義丸を養子として秀吉に送って講和します。

その後、家康は秀吉の妹旭姫を娶り、秀吉の再三にわたる申し入れに応えて、大阪城を訪れています。
家康は生前の信長と同盟を結んでいた大名であり、秀吉はその信長の一家臣に過ぎませんでした。その上、この戦いでは、むしろ秀吉を圧倒した家康でした。その家康が、結果的には、秀吉に従属することになったのです。
(この戦いは、織田家の後継争いで反目していた信雄と秀吉を、家康がけしかけたもの、という説があります。【豊臣秀吉】【日本の歴史 13】)

家康43歳。


K.小田原の陣

既に、九州を征討し西日本を平定した秀吉の目は、東国に向けられていました。
秀吉の次の標的は、東国で大きな勢力を持っていた北条家です。
秀吉は、調停違反などを理由に、何度か北条氏政・氏直親子の上洛を督促しました。しかし、親子はこれを拒み続けます。

そのため、秀吉は、天正17年11月、宣戦を布告し、翌天正18年4月、秀吉は、大軍をもって北条氏の小田原を包囲しました。
四周の属城が、次々と秀吉軍の手に落ち、次第に包囲網が狭められていきます。
が、その間も、小田原城内では重臣たちによる評定会議が開かれていました。
度重なる評定にもかかわらず、結論は出ません。(これを「小田原評定」といいます)
その間に士気は低下し、ついに同7月4日癸卯(1590年8月3日)、小田原城は陥落しました。

この戦いの論功行賞は、その場で行われ、家康は北条氏の旧領を宛行われました。
初めから、それが目的であったかのような素早さです。
その上、家康も、異を唱えることなく、これを受け、同8月、駿府へは帰らず、その足で江戸に入ります。

この間、北条氏との交渉を一手に担っていたのが家康で、先鋒を務めたのも家康でした。鈴木良一氏は【豊臣秀吉】の中で、

「地理的位置から当然にはちがいないが、何かそれ以上に意味があったように思われ、その点でも三成との摩擦は見逃せない。三成は進軍途上、秀吉が家康の居城駿府に入ること、家康の富士川にかけた船橋をわたること、小田原攻撃の先鋒に家康をあてることを、すべて危険として止めさせようとし、その度ごとに浅野長政の反対で失敗した。関ケ原の戦の家康・三成の対立、家康・長政の同盟がすでに芽ばえていた

と述べておられます。三成には、秀吉の家康に対する警戒心と同じものがあったのでしょう。その上、こうした機会を家康に与えることは、彼の東進策を利するだけ、という考えがあったのではないかと思われます。

家康49歳。


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