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[資料 本能寺の変][事件・戦闘]

足利義昭と信長の対立

永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。そして、同10月18日甲午(1568年11月7日)、義昭は征夷大将軍に任ぜられ、室町十五代将軍となる。
その二ケ月後、永禄12年正月14日戊午(1569年1月30日)、信長は義昭に九条の[殿中御掟]を、2日後に七条の[殿中御掟追加]を示した。内容は、

などから成る。これは事実上将軍の行動を規定するもので、義昭としては容易く受け入れることができるものではなかったのだろうが、信長の軍事力を背景として、上洛や将軍就任を実現しており、就任後も信長の力を欠いては政権維持も難しいことから、これを拒否することができなかった。
しかし、信長からの自立を目指す義昭は、盛んに浅井・朝倉などの有力大名に対して、幕府後援を求める御内書を発し続けた。これを黙視できない信長は、更に、永禄13年正月23日(1570年2月27日)、五ケ条から成る条書を示す。

軍事的裏付けを持たない義昭の足元を見透かしたような、脅迫状に近い内容で、信長の[天下布武]の決意を明文化したものといえる。
こうして、義昭と信長の関係は更に悪化し、ここに及んで、義昭は信長に対して徹底抗戦する意志を固めるに至った。この義昭の呼びかけに、本願寺・浅井・朝倉などが呼応する。
しかし、義昭の意図に反し、浅井・朝倉は、元亀元年6月の姉川を挟む攻防で信長に敗れ、翌元亀2年9月12日辛未(1571年9月30日)には、浅井・朝倉軍に同与したとして比叡山延暦寺が焼き払われる。それまでは、義昭に傀儡としての価値は認めてきた信長であったが、元亀3年9月28日辛亥(1572年11月3日)、ここに至って、再び十七ケ条からなる意見書を突きつけ、義昭追放の意志を明らかにした。

果たして、翌元亀4年3月、自ら決起した義昭ではあったが、同7月には信長に降伏して京から追放され、翌8月には義昭を支えてきた朝倉・浅井が、相次いで信長の攻撃の前に滅亡して、上洛以来の抗争に終止符が打たれた。

Mar/8/1997


浅井・朝倉攻め

永禄13年、信長は、室町十五代将軍足利義昭の名を利用して、越前の朝倉義景に対して再三にわたって上洛を促したが、そのつど義景はこれを無視、それを理由に、元亀元年4月、信長は若狭から越前へと兵を進めた。
小谷城主の浅井長政は、信長の妹お市の方を妻に迎え入れ、織田家と同盟関係にあったため、信長は浅井氏の違背を少しも疑っていなかったようである。しかし、同盟関係を結ぶ際の条件の一つに朝倉氏を攻めないという一項があって、信長はこれに違約した訳でもあり、浅井氏と朝倉氏の関係を考えると、迂闊だったといえる。
(実際に、長政は、信長との同盟を優先しようとしたが、朝倉氏との関係維持を主張した父久政の意見を容れて、同盟破棄に踏み切ったとされる)

織田軍は金ケ崎城を落とし、更に進攻しようとしたところ、長政は六角承禎・承賢父子と共に朝倉救援に立った。浅井・六角は京と越前の間にあって、退路を塞がれる形になった信長は、元亀元年4月28日乙丑(1570年6月1日)夜、急遽金ケ崎の陣を払い、朽木谷を経て、同30日に無事京へ戻った。

Jan/15/1997

姉川の戦い

元亀元年6月19日乙卯(1570年7月21日)、信長は再び大軍を率いて岐阜を発ち、同21日、小谷城前方の虎御前山に布陣、支城の横山城を包囲した。
同25日、朝倉景健率いる1万の援軍が到着、横山城救援のため浅井・朝倉軍は城を出た。
同27日、援軍を求められていた家康が5千の兵を率いて合流。浅井軍には織田軍が、朝倉軍には徳川軍が当たることになり、浅井・朝倉軍約18,000と織田・徳川軍約28,000が、姉川を挟んで布陣した。
同28日早朝、初めは浅井・朝倉軍が優勢で、織田軍は大きく後退したが、徳川軍榊原康政らに右翼から急襲され、崩れ始めたところを、体勢を立て直した織田軍の総攻撃を受けたため、浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することになった。

5時間ほどの激戦による戦死者は両軍で2,500ともいわれ、多くの負傷者も出て、姉川は血で真っ赤に染まったといわれている。

Jan/15/1997

延暦寺焼き討ち

元亀元年7月、姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破った信長は岐阜に帰ったが、信長が浅井・朝倉に対していた隙に乗じて、将軍義昭の檄に応じ本願寺と通じた三好勢が再起した。
信長は入京して三好勢を攻撃したが、三好三人衆に呼応して、浅井・朝倉軍が南近江に出兵、比叡山中に陣取った。
そのため信長は延暦寺に対し、協力するか中立を守るように迫ったものの、叡山側はこれに応じず、更に本願寺門徒や六角承禎らが加わったため、信長は正親町天皇の綸旨を得て講和にこぎつけた。
しかし、一年後の元亀2年9月12日辛未(1571年9月30日)、信長は突如坂本から比叡山に攻め上って火を放ち、延暦寺の根本中堂・山王二十一社などをことごとく焼き払い、僧侶男女数千の首を切った。

当時の比叡山の様子を[信長公記]は、[山門・山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道の恐れも顧みず、婬乱、魚鳥を服用し、金銀賄いに耽り、浅井・朝倉に贔屓(ひいき)せしめ、ほしいままに相働]いている、だから、[憤りを散ぜられるべきため]に焼き打ちしたのだ、と記している。

焼き討ち後、延暦寺の寺領は没収され、光秀や佐久間信盛に与えられた。

Jan/25/1997

小谷城攻め

更に、宿敵武田信玄が元亀4年4月12日壬戌(1573年5月13日)に病没し、再び浅井・朝倉らに檄を飛ばして信長討伐を謀った将軍義昭との和議が成立する(天正元年4月)など、信長にとって、浅井・朝倉攻めに専念できる環境はできあがった。そして、
天正元年8月、浅井家の家臣で近江山本山城の守将阿閉貞征が織田方に内応、小谷城が孤立したため、義景は2万の兵を自ら率いて来援した。
これに対し秀吉・柴田勝家・佐久間信盛らが義景を攻め、天正元年8月13日辛酉(1573年9月9日)夜、義景は信長の急襲を受けて越前に逃れ、なおも追撃され山田荘で自害した。
その後、織田軍は小谷城へ向い、27日夜、浅井久政を自刃させ、翌29日、長政はお市の方と三人の子供を密かに城外に逃した後、自刃した。

天正2年正月、信長は年賀に伺候した諸将に、黄金の箔濃(はくだみ)にした長政と義景の首級を酒器代わりに出したという。[信公]

Jan/25/1997


長篠の戦い(設楽ケ原の戦い)

元亀4年4月12日壬戌(1573年5月13日)、信長が最も恐れていた武田信玄が病没した。
その後を継いだのは四男勝頼で、積極的に美濃・遠江・三河などに転戦するものの、重臣から頭領としての才能を認められるまでには至らなかったようである。

天正3年5月、武田軍は長篠城を囲った。
城主奥平貞昌以下五百の兵は頑強に抵抗したが、1万5千の大軍による包囲が長引くに連れ、兵糧が不足するなど、城兵の戦意は低下し始めていた。
そこで、家康に援軍を求めることになった。

窮状を訴えられた家康は救援を約するものの、気にかかるのは、元亀3年12月22日甲戌(1573年1月25日)、上洛を目指していた信玄と三方ケ原で戦い、信長の救援を受けながら大敗し、前年の天正2年5月16日庚寅(1574年6月5日)には勝頼に高天神城を奪われたことであった。
武田軍の強さ知り抜いてる家康は、信長に援軍を求めた。高天神城救援を請けながら間に合わなかった信長は、家康の要請を断れなかった。

天正3年5月13日辛亥(1575年6月21日)、信長は3千挺といわれる鉄砲と馬防ぎの柵を用意させ岐阜を出発、同18日、長篠から一里半程の設楽ケ原に布陣し、連子川沿いに空堀を掘り、土塁を築いて三重の木柵を構えさせた。
この馬防ぎの柵によって、武田の騎馬隊を食い止めると共に、鉄砲隊を三隊に分け、千挺ずつを交代に発砲させ、準備から発砲までに時間のかかる火縄銃の欠点を補おうという作戦であった。

その頃、武田軍の本陣では軍議が開かれ、馬場信晴山県昌景ら信玄以来の宿老は決戦を避けることを進言したが、勝頼はこれを退け、同20日早朝、長篠城の包囲を解き、鳶ケ巣山以下の砦に守備兵を残して、清井田原に軍を移動させた。

同20日夜、信長は家康の家臣酒井忠次の進言を採用し、鳶ケ巣山へ奇襲をかけることにし、忠次隊は、同21日未明、鳶ケ巣山を奇襲して落とした。これによって、武田軍の後方拠点は失われた。
同21日、武田方山県昌景の突撃によって、武田軍と織田軍の戦闘の火蓋は切って落された。同時に織田方の鉄砲が一斉に火を噴き、山県隊は人も馬も次々に撃ち倒され、続いて武田信廉、小幡信貞、武田信豊、馬場信晴と、武田軍は鉄砲玉よけの竹束を盾に突撃を繰り返すものの、次々に打ち放たれる鉄砲の前に屍の山を築いていった。開始から4時間ほどで、武田軍の主だった将の多くが倒れた。
午後に入り、武田軍が引き始めると、信長は総攻撃を命じ、滝川一益を一番手とする織田軍と徳川軍、更には長篠城の城兵も加わって、武田軍に襲いかかった。既に主力の多くを失っていた勝頼はわずかの味方と共に敗走した。かつては最強の名をほしいままにした武田軍団は、わずか8時間あまりの戦闘で崩壊した。

この合戦では、織田・徳川軍にも多数の兵を失ったが、打撃が大きかったのは、やはり武田方であった。家内の結束が緩んでいた上の敗戦で、天正10年3月、信長の甲斐征討によって名門武田家は呆気なく滅んだ。

Jan/15/1997


荒木村重の謀反

天正6年10月、秀吉と共に播磨進攻中の荒木村重は、突然信長に叛旗を翻した。

もともと村重は摂津池田城主池田勝政に属し、茨木城主となり、後には三好氏に属して、尼崎城にあったが、主家筋の将軍義昭が挙兵(元亀4年3月)すると、義昭を見限って信長の配下となった。
旧主池田勝政は、この時、形勢を傍観して進退の時期を逸し高野山に逃れたため、勝政の部下や所領を支配下に収めるなどして、次第に勢力を広げていくと同時に、信長の下で戦功を立てることもしばしばであった。

ところが、石山本願寺を包囲中に村重の属人中川清秀の郎従らの中に、大阪城中に密かに糧食を売る者があった。
城内の欠乏に乗じて利を貪ったという。毛利からの糧道を絶つことに全力を注いでいた信長にとっては、利敵行為そのものであった。

信長は、松井友閑・光秀らを派遣して真意を糺すと共に、細川藤孝・秀吉を以って慰留に努めたが、弁解しても聞き届ける信長ではないという、清秀・高山重友ら諸将の反対によって謀反を決意するに至った。
(その際、村重は光秀の立場を慮って、長子村安に嫁いでいた光秀の女を送り返している。この女は、後に三宅秀満に再嫁し、秀満は明智と改姓した)

ところが、同11月、村重謀反の原因となった張本人の清秀が信長に降り、続いて謀反を進言した重友も降りてしまった。
叛旗を翻した理由がなくなってしまった村重は、それ以降も有岡城に籠って抵抗を続けたが、天正7年9月2日乙巳(1579年9月22日)、10ケ月余の籠城で城中の糧食が枯渇しため、一族・妻子などを残し、僅か数騎で尼崎城に入った。
しかし、天正8年閏3月2日(1580年4月15日)、池田恒興に攻められ、一年半に及ぶ空しい抵抗を諦め、毛利を頼って備後尾道に逃げた。

Jan/28/1997


佐久間信盛父子らの追放

長い間抵抗を続けていた石山本願寺を開城させた信長は、天正8年8月15日壬子(1580年9月23日)、突然自筆の書状を佐久間信盛に送り付けた。十九条から成る条書は

などから成り、書き進む内に、咽喉に突き刺さっていたものが、次から次へ思い浮かんできたのであろう、押さえ切れない信長の憤りが伝わって来る。そして、その憤りは、二日経っても治まらなかったようである。同17日には、織田家の家老である林佐渡守通勝・安藤伊賀守守就・尚就父子・丹波右近が標的にされた。
通勝追放の理由は、弘治2年、信長の父信秀亡き後の後継に弟の信行を推した、ということである。
これは、24年も前の話を持出しての難詰であり、通勝を責めるのであれば、同様に信行後継を支持した柴田勝家(後に信行の画策を信長に通報しているが)も同罪なのであって、もう難癖としか言いようがない。

この信盛への折檻状で注目すべき点は、[武編道ふがい(不甲斐)なき]信盛に比して、

と続く条である。
信盛に対する信長のかなり感情的な叱責に較べて、光秀以下に対する評価は、驚く程に冷静・客観的な感じを受ける。それによれば、第一に光秀の働き、秀吉の働きは[次]で、更に恒興、勝家と並んでおり、ここから、信長の家臣に対する評価基準を、窺い知ることができるのではないだろうか。

光秀は、翌天正9(1581)年2月、京都で催された[御馬揃]の奉行を任されており、同年6月、家内の軍規を定め、その中で[自分は石ころのように沈淪しているものから、召出され上に莫大な兵を預けられた。武勇無功の族は国家の費えである。だから家中の軍法を定めたといっている[明智高柳]]

こうしたことからも、光秀が、従前から信長弑逆の機会を窺っていたとする説は、論拠に無理があるのではないだろうか。
Mar/15/1997


甲斐征討

武田信玄の病死後、勝頼が跡を継いで10年目、長篠での敗戦や、再三の戦役による過酷な課役などで、かつては鉄の結束を誇った武田家の中にも、かなりの不満が鬱積していた。
信玄の女を妻に迎え、武田家と親戚関係にあった諏訪の木曽義昌も例外ではなかった。

天正10年2月1日庚寅(1582年2月23日)、信長の許に、その義昌が美濃苗木城主遠山友政を通じ、甲斐征討戦の先鋒となることを申し出、信長の来援を求めていることを知らせる使者が着いた。
天下を統一するために、武田討伐は避けて通れない、同3月3日辛酉(1582年3月26日)、信長は自ら信忠と共に木曽口・伊奈口から、家康は駿河口、北条氏政は関東口、金森長近は飛騨口から、一斉に攻め込むことを命じ、同3月5日癸亥(1582年3月28日)、安土を出発した。

一方、義昌の反乱を知った勝頼は、同2月、討伐のため一万五千の兵を率いて新府を出発、伊奈口の滝沢に要害を構えると共に、下伊奈・上伊奈の各城を守備させ、木曽口では義昌の攻撃を命じた。
しかし、岩村口に進んだ先発隊信忠軍の先鋒滝川一益川尻秀隆らが、下条信氏が守る滝沢の砦に迫ると、同族九兵衛の裏切りで自壊し、次いで、松尾城の小笠原信嶺も下りた。
木曽口から進攻した信忠軍の森長可らが下伊奈に入ると、保科正光は飯田城を棄てて高遠城に逃れ、大島城の武田信綱らも逃亡した。
最後まで抵抗を示したのは、わずかに高遠城の仁科盛信だけだったが、その高遠城も、信忠軍の攻撃を受け、同3月2日庚申(1582年3月25日)、盛信は討死にした。
木曽口だけではない。家康が進む駿河口でも、大熊長秀は遠江小山城を棄て退却、依田信蕃(のぶしげ)・朝比奈信置も投降、勝頼の姉婿である穴山信君までもが、甲府にいた妻子を連れて下ってしまった。

なすところなく、勝頼は新府へ戻り、最後の軍議を開いた。真田昌幸は、新府で防戦することは難しく、自城の上州吾妻郡岩櫃城への撤退すべきだと進言したが、勝頼は小山田信茂の進言を入れ、翌日、新府城に火をかけ、信茂の都留岩殿城へ向かった。
勝頼一行は韮崎・甲府ヘ経て、笹子峠へと向かい、峠の麓で信茂の迎えを待った。
しかし、同9日夜、信茂は差し出していた人質を奪い返すと、峠から勝頼らに鉄砲を浴びせ掛けた。勝頼らには太刀向かうすべもなかった。
同11日、勝頼は妻子と共に自刃、名門武田家は殆ど戦わずして滅んだ。

信長本隊は無人の野を進むように、同4月2日庚寅(1582年4月24日)に甲府へ着陣、家康に駿河を与え、信君の本領は安堵するなどの論功行賞を終え、安土に凱旋した。

この時、信長は、信玄の菩提寺恵林寺が、勝頼の遺体を引き取って供養を行ったことなどを理由に、寺に放火、150余人を焼き殺したが、その際に、同寺の長老快川紹喜は、[心頭滅却すれば火もまた涼し]と言い放ち、炎の中で憤死したという有名な話が伝わっている。

Jan/18/1997


四国征討

天正10年5月7日甲子(1582年5月28日)、甲斐の武田氏を討った信長は、神戸信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約して、信孝に四国の長宗我部元親征討を命じた。

天正3年7月、元親は土佐を平定し、四国統一に乗り出す。それに先立って、元親は、長子弥三郎に信長から偏諱を賜りたい、という趣旨の書状を光秀に送った。(当時、八方に敵を抱えていた信長は、元親を敵に回すことを恐れ、光秀を和平交渉に当たらせた結果、元親の恭順の意を表す書状が光秀に届いた[明智桑田])(元親は1573天正元年以来、信長に通じており、信長と元親の間に光秀が介在していたことは明らかである[明智高柳])

それに対して、同10月26日辛卯(1575年11月28日)、信長は、[信]の一字を与えると共に、四国は切り取り次第に与えることを約した。
その後も、天正8年6月26日甲子(1580年8月6日)、元親は鷹16聯・砂糖3千斤を贈るなど、信長との関係維持に努めてきた。その都度、光秀が仲介したのである。

その一方で、元親は着々と版図の拡大を押し進めていた。
ところが、三好康長の阿波に侵攻すると、天正9年3月20日甲申(1581年4月23日)、康長は、十河存保と連合し、中国在陣中の秀吉と連絡を取り、元親に侵された地の回復を計ろうとした。
それに対抗して、元親は信長に、切り取った地に対する安堵状の下付を求める。[明智桑田]
(元親の妻は光秀の重臣斎藤利三の妹であったとされ、康長は秀吉の甥孫を養子としていた)

光秀、秀吉、二人の取り次ぎに対して、信長は元親討伐を決断する。
そして、天正10年5月7日甲子(1582年5月28日)、信孝に四国出陣を命じた。先の元親との約束は、反故にされた。

他家との間の前言取消しは戦国の常であったろう。・・・だから信長の勢力が拡大され、元親の勢力も拡大されれば、両者が衝突することは当然の帰結である。・・・けれども誰が四国征伐の大将になるかということは問題である。光秀としては、・・・長宗我部氏との交渉は従来自分が当たって来た。だから征伐も自分の手で行われると考えたであろう(当時はこういうのが風習であった)。・・・それなのに・・・信孝を・・・大将にするのはよい。しかし副将は丹羽長秀が抜擢されたではないか。・・・光秀がその前途を輝かしいものと思えなくなったであろうことは推察できないではない。[明智高柳]

信長の念頭にあったのは、単に、四国の脅威を取り除くことだけだったのかもしれない。だが、結果的に、光秀の取り次ぎを退け、秀吉の進言を容れることになった。

Mar/18/1997


清洲会議

本能寺の変から25日後の天正10年6月27日癸丑(1582年7月16日)、柴田勝家・秀吉・丹羽長秀池田恒興ら織田家の宿老が、清洲城に会した。

信長の次男北畠信雄と三男神戸信孝が、信長・信忠亡き後、織田家後継に意欲を燃やしていた。
そこで、古くから織田家に仕え、筆頭家臣の位置にあった勝家は、信孝を後嗣として推挙する。勝家は、信孝の烏帽子親でもあり、自らは光秀討伐に間に合わなかったものの、信孝は討伐軍に参加しており、三男ではあるが資格に不足はないと考えたのであろう。
ところが、秀吉が推したのは、長男信忠の嫡子三法師(秀信)であった。主筋である。

秀吉は仮病を使って中座する。三法師を推すことは、予め長秀・恒興らに話してあったと思われる。
事実、その間、長秀らが秀吉案支持を表明した。

いち早く光秀を討ったのは秀吉であり、その秀吉が[筋目]を持出せば、どうしても勝家案に勝ち目はない。議論の末、秀吉案が大勢を占めた。
頃合いを見計らっていたように、秀吉は、三法師を抱いて席に戻って来た。最早、勝家もそれ以上、信孝後継に固執はできない。まさに秀吉の圧勝であった。

こうして、織田の後継は三法師とすることが決定され、幼少であることから信孝が後見することとし、遺領の配分を済ませ、誓詞を交換して会議は終った。

戦後の収集策を会議によって決定する方式が打ち出されたことは、日本の歴史の上では例がなく、・・・その決定がそのまま遵守されたわけではないが、参加する人々の良識と対立する人々の互譲によって、・・・順当な結論を導き出したことは注目に値する。[日本の歴史]

しかし、このままでは終らなかった。

Jan/26/1997


賎ケ岳の戦い

秀吉は、東美濃の諸将を降し、着々と信孝包囲の網を絞り、天正10年12月20日甲辰(1583年1月13日)、とうとう信孝は、秀信(三法師)を安土に移すことに同意する。
更に、上杉景勝からは秀吉に誼を通じて来る、備後にあった足利義昭の京都復帰に助力することを約する、勝家方の滝川一益を亀山城に攻め降ろす。
かくして、柴田勝家攻撃の準備は整った。
一方の勝家は、深い雪に閉じ込められて動けず、歯噛みしながら雪解けを待つ他はなかった。

天正11年3月3日乙酉(1583年4月24日)、勝家は兵を北近江に進め、佐久間盛政も応じて柳瀬に陣を敷いた。
秀吉は、同12日、佐和山から柳瀬と進んで対陣した。対峙したまま、双方の駆け引きは続き、秀吉は本願寺に対し、加賀に一揆を起こし勝家の後方を撹乱するよう依頼。
一方、勝家は信孝・一益に清水城稲葉一鉄・大垣城氏家直通の攻撃を指示する。
同4月16日戊辰(1583年6月6日)、信孝・一益が挙兵した。
同17日、秀吉はそれを聞いて、急遽大垣城に戻る。その隙を狙って佐久間盛政は、大岩山の中川清秀を戦死させ、岩崎山の高山長房を敗走させる。
勝ちに乗じて盛政は、勝家の帰陣命令を無視して、余吾湖畔にまで進んだ。
秀吉は、直ちに軍を返す。岐阜から近江木之本まで13里の距離を、約2時間半ほどで駆け抜けたという。
秀吉の大返しに慌てた盛政は、急ぎ退却を開始したが、賎ケ岳の砦に入っていた丹羽長秀が秀吉の先鋒隊に合流して、盛政軍は壊滅した。
辺りは屍体で埋め尽くされ、余呉湖は血で紅く染まったという。

賎ヶ岳の麓で奮戦目覚しかった秀吉方の、福島正則加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則は[賎ケ岳の七本槍]と呼ばれるが、実際に戦功を賞されたのは、七人の他に、桜井左吉・石河一光(戦死)を加えた九人であったという。

盛政退却の報が届いた勝家の陣は、激しく動揺し、部下の過半数が逃散するありさまで、前田利家も退却を始め、同21日、秀吉軍の先鋒堀秀政が勝家本陣に迫ると、勝家も北庄に向かって退却を開始した。
同22日、秀吉は府中に至り、同23日(1583年6月13日)、利家を先鋒として北庄を囲んだ(秀吉は利家を試そうとしたようである)。
利家は勝家軍に加わりながらも、予め秀吉との間に、裏切りはできないが中立するという約束があったとされ、勝家も、利家の裏切りを咎めず、むしろ年来の親交を謝し、今後は秀吉を頼ることを薦めたといわれる。[日本の歴史]

同24日、大軍に包囲された勝家は、防戦に努めたが、やがて天守近くまで秀吉軍の兵が押し寄せて来るに及んで、浅井長政の三人の娘を秀吉の陣所に送り、妻お市の方と共に自刃して果てた。

同5月2日癸未(1583年6月21日)、信孝は自刃させられ、同7月には一益も秀吉に下って、反秀吉派の大半は一掃された。

Jan/27/1997


小牧・長久手の戦い

清洲では反柴田の立場を取って秀吉に同調した織田信雄ではあったが、次第に秀吉に対しての疑念が募ってきた。
反秀吉派が次々に倒され、家臣の中にも秀吉に懐柔されている者がいるようだ、これは織田家の乗っ取りを企んでいるとしか思えない。

天正12年3月6日癸未(1584年4月16日)、信雄は、家康と計って、秀吉に通じていた三人の家老を切り捨てた。事実上の宣戦布告である。
それに呼応するように、翌7日、家康は8千の兵を率いて浜松を出、同13日、信雄の清洲城に入った。

先の甲斐征討の戦功によって、武田の旧領を与えられた河尻秀隆だったが、蜂起した一揆に倒され、領主のいなくなった甲斐を巡って、家康は北条氏と抗争を繰り返していた。
その家康の、驚くほど迅速な反応である。
信雄・家康は、早速、越中の佐々成政、四国の長宗我部元親、紀州の雑賀・根来衆、本願寺宗徒などに、秀吉牽制・攻撃を依頼する。
しかし、秀吉も動きの速さでは負けてはいない。越後の上杉景勝、淡路の仙石秀久、加賀の前田利家、越前の丹羽長秀らに加勢を求める。

秀吉方には大垣の池田恒興、金山の森長可らが参陣して、同13日、池田元助(恒興の子)は信雄の属城犬山城を陥れた。
それに対して信雄・家康は小牧山に布陣し、酒井忠次・榊原康政・奥平信昌らが長可を撃退する。この敗戦を聞いた秀吉は、21日、大坂を出て、28日、犬山城に入った。家康は清洲を出て小牧に陣し、これに長島からの信雄も合流。両軍は対峙した。

睨み合いは続いて、同4月7日癸丑(1584年5月16日)、三好秀次(秀吉の甥)・恒興・長可が密かに本隊を抜け出て、小牧山を迂回し長久手を通って岡崎城を攻撃しようとした。
これを察知した家康は、自ら主力の殆どを率いて小幡城に移り、同9日、榊原康政らが恒興らを急襲、恒興・長可は討死、秀次は敗走した。

更に両軍対峙は続いたが、5月1日丁丑(1584年6月9日)、秀吉は守備隊を残して岐阜に帰城、信雄も同3日に長島へ戻り、家康は6月12日丁巳(1584年7月19日)に清洲に入った。
その後も、秀吉方が信雄の属城竹ケ鼻城を落せば、家康は滝川一益を降ろすなど、一進一退が続く。

長い膠着状態が続いて、同9月6日己卯(1584年10月9日)、信雄・家康が秀吉に和議を申し入れる。
ところが、秀吉は家康の次男於義丸(後の秀康)を人質として差し出すよう主張して、成らない。
しかし、伊勢の殆どを失った信雄は、とうとう同11月11日癸未(1584年12月12日)、秀吉に会い、単独で講和してしまった。
取り残されたのは家康である。
そもそも、兵を出したのは信雄の依頼によるものであった、その信雄が秀吉と和してしまえば、一人抵抗する理由もなくなる。
そして、同12月12日甲寅(1585年1月12日)、家康も次男於義丸を養子として秀吉に送って講和した。

その後、家康は、天正14年5月14日戊申(1586年6月30日)に秀吉の妹旭姫を娶り、同10月27日戊子(1586年12月7日)には秀吉の再三にわたる申し入れに応えて、大阪城を訪れている。
家康は生前の信長と同盟を結んでいた大名であり、秀吉はその信長の一家臣に過ぎなかった。
その上、この戦いでは、むしろ秀吉を圧倒した家康である。その家康が、結果的には、秀吉に従属することになった。

Feb/16/1997



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