【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 天王山]
京都府乙訓郡大山崎町
参考
[
地名・史跡名 天王山
]
青木葉谷広場から淀川を望む
宝積寺の裏手から天王山登山道に合流します。この登山道を7-8分程登ると、左手に小さな広場があります。
青木葉谷広場です。
かなりの上り坂で、気温は低かったのですが、汗が吹き出ました。
この青木葉谷広場からは南に視界が開け、木の間から淀川が眺められます。
写真左側に見える淀川対岸の山は、男山です(いえ、だと思います)。
この場所は、三川(桂川・木津川・宇治川)が合流するところが眺められるとありましたが、実際には木が伸びていて、視野はかなり狭く、合流地点は見えませんでした。
旗立松
青木葉谷広場から、更に上を目指します。5分程で旗立松展望台に到着します。
それほど大きくはありませんが、何本かの松があります。
この松については、
大山崎町
のページに、
天王山頂への登り道、八合目付近にあるのが旗立松です。
1582年におこった山崎合戦の時、秀吉が味方の士気を高めるため老松の樹上高く千成ひょうたんの旗印を掲げた所で、戦局に大きな影響を与え、勝利を収めたといわれます。
今、松は6代目になりました。
眼下には淀川の流れ、大阪平野、京都盆地が望めます。
とあります。
旗立松
旗立松の根元にある石です。
旗立松案内板
旗立松の由来を記した案内板が立っています。それによると、
旗立松(天正山崎合戦の史跡)
天正十年六月二日、洛中本能寺に宿泊していた織田信長公は、家臣である明智光秀の手によって暗殺された。信長死去の知らせは備中高松城(現岡山県)を攻略していた羽柴秀吉の元にも届き、秀吉は急ぎ毛利氏(城主清水宗治)と和議を結び京都へと向かった。一方明智光秀は秀吉の帰洛に備え御坊塚(下植野)に本陣を敷き、六月十三日夕刻天下分け目の天王山の戦い(山崎合戦)の火ぶたは切っておとされた。
羽柴秀吉は天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く軍旗を掲げた。これを見た羽柴軍は一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総くずれになってしまった。これによって光秀は僅かな手勢を従えて近江へと落ちていくのである。
その初代と伝えられる松も明治中頃まで槁木(こうぼく)の姿をとどめていたが朽ちてしまい、その後三回の植樹をへた昭和六十三年、再び枯れたため、国民体育大会を機に五代目の旗立松を植樹し今日に至っている。
平成元年三月
大山崎町文化協会
だそうです。
旗立松山崎合戦之地石碑
旗立松の近くに「山崎合戦之地」と彫られた石碑があります。
山崎の戦いの序盤に、この天王山の争奪戦がありましたが、やはり主戦場は天王山の麓大山崎から勝龍寺南方の御坊塚(下植野)付近でした。
それなのに、どうしてここに「山崎合戦之地」の碑なのかと、疑問でしたが、この碑の背面に彫られていた「願文」と題した趣意文を読んで、納得しました。
旗立松山崎合戦之地石碑
山崎合戦之地石碑の背面に彫られた願文です。
願文
天正十年六月十三日 豊臣秀吉は 京都本能寺において、主君織田信長を討った明智光秀とここ大山崎で激突した。
この合戦後、天下統一を目指し亡信長の意志を受け継いだ秀吉は、天王山頂に城を築き 天下人への地固めをしていった。
山崎合戦こそ中世から近世への幕開けを告げた歴史上重要な合戦であり、今日、天下分け目の天王山と呼ばれるにふさわしい重要な意義をもつ合戦であった。その日本合戦史上欠くことのできない山崎合戦をこの記念碑を建立することによって、一人でも多くの人々に知らせ、また後世に受け継いでいくため秀吉ゆかりの地旗立松の地に建立するものである。
昭和五十八年十一月吉日
大山崎町
「山崎の戦いの意義を広く知らしめたい、そのために(主戦場ではないが)秀吉ゆかりの地に碑を建てた」という趣旨のようです。
ただ、文中に「豊臣秀吉」とありますが、当時は「羽柴秀吉」と名乗っています。
「豊臣」姓を名乗るのは、この合戦から四年後の天正十四年(1586)のことになります。
碑の右側に見える鳥居は、酒解神社(さかとけじんじゃ、正式には自玉手祭来酒解神社といいます)の鳥居です。
もう一つ、この天王山の重要性は分かるのですが、「天王山の争奪戦」については、【
明智軍記
】とそれ以降の史料にしか見えないことが、気になっています。
旗立松展望台から山崎古戦場を望む
展望台から古戦場を望みます。
円明寺川(現小泉川)を挟んで、左手の御坊塚(下植野)に明智軍が、右手の大山崎に秀吉軍が布陣しました。
旗立松展望台山崎古戦場解説板
展望台には、両軍の布陣図があります。
図によれば、明智軍は円明寺川(現小泉川)に沿って布陣し、秀吉軍は先鋒が円明寺川に張り出し、後方は天王山と淀川に挟まれた大山崎で縦長になって布陣しています。
布陣図の左に解説文があります。
天下分け目の天王山
天正・山崎合戦
天正10年(1582)年6月2日、京本能寺(ほんのうじ)で織田信長が討たれた。その報は2日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命ぜられていた羽柴秀吉の元にも届いた。秀吉は急遽(きゅうきょ)毛利氏との和睦(わぼく)を成し山陽道、西国街道をひた走り京を目指した。一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した明智光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めた。6月13日午後4時頃戦いは始まった。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終った。敗北を知った明智の兵は方々に逃散し、光秀も勝竜寺(しょうりゅうじ)城に一時退去、夜陰に乗じて僅かな手勢を伴って近江へと逃れていった。一行は桃山丘陵を越えた小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打った。
合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築城し、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる。
2005.6.吉日
大山崎町
日向守敵歟、自山崎(山城乙訓郡)令出勢、於勝龍寺(山城乙訓郡)西足軽出合、在(有)鉄放軍、此近邊放火【
兼見卿記(別本)
、天正十年六月十二日条】
光秀の敵か、山崎まで出張ってきた、勝龍寺近くで足軽同士が出会い、鉄砲を撃ち掛け合い、(光秀の敵が)近辺に放火を働いた
十二日、葉(羽)柴藤吉既至攝州、猛勢ニテ上、家康既至安土著陳云々、如何可成行哉覧、惟日柴八幡・山崎ニ在之淀邊へ引退歟云々、【
多聞院日記
、天正十年六月十二日条】
(天正十年六月)十二日、秀吉は既に摂津に至り、勢いを増しながら京に向かっている、家康は既に安土に着いたとか、(これから)どうなることやら、光秀は柴八幡・山崎辺りにあり、(河内・摂津から)淀辺りまで後退したとか
【多聞院日記】の記述の一部には、伝聞・風聞によるものがあり、ここで「家康既至安土著陳」とあるのも、その一つと考えられます。
実は、家康は本能寺の変の報を聞くや、堺を出て、伊勢を経て岡崎に逃げ帰りました。
【
家忠日記
】の天正十年六月四日条に、「家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、
(家康一行は伊勢を退き(海路)大浜(現愛知県碧南市辺り)に着いた、町まで迎えに出た)
」とあります。
六月十二日ニ羽柴筑前守殿從西國出張也、山崎迄十二日ニ着陣、即、我等モ爲見廻參、堀久大郎殿路次ヲ令同道候、即十二日ニ筑州ハ富田(攝津三島郡。眞宗の教行寺がある)ニ御在陣也、【
宗及茶湯日記他会記
】
秀吉は西国(備中)に出張中であったが、六月十二日には山崎に着陣したという、堀久大郎の案内で我らも見学に出かけた、到着した時には、秀吉は既に富田に到着していた
其後播州より羽柴攝州有岡城入城アリテ、ソレヨリ三七郎殿一味ニ、山崎表へ打上リ、日向方ノ衆、十三日ニ山崎ニテ及一戰。日向守キリマケ、敗軍シテ一万計討死。日向守ハ山科ニテ一揆ノ手へ討捕之。【
宇野主水日記
】
その後(光秀が信長を討った後)、秀吉は(備中高松城から東上し)播磨(播州、現兵庫県)を経て摂津有岡城(現兵庫県伊丹市)に入る、織田信孝(三七郎、信長の三男)が一味に加わり、山崎に進んだ、光秀勢は十三日に山崎で秀吉軍と一戦に及んだが、敗北し、一万程が討ち死にした、光秀は山科(京都府山科区)で一揆に遭い討たれた
雨降、申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟、果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川一条(乘)寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守令敗軍、取入勝龍寺云々、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、【
兼見卿記(正本)
、天正十年六月十三日条】
雨、申刻(午後四時前後)山崎辺りでは鉄砲の音が数刻(一刻はほぼ二時間)止まず、戦いが行われているようだ、果たして五条口から戦いの敗れた落ち武者が数人見られた、白川一乗寺辺りへ落ち行く様子だった、(落ち行く)途中では一揆に出会い、或る者は討たれたり捕まえられたり、また或る者は追剥されたりしたという、京都から知り合いが来て、山崎の合戦で明智軍は敗れ、勝龍寺に引いたという、討ち死にした兵は数知れずとか、「天罰が下るのはまもなく」という話が広まっているそうだ、
惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、伊勢守(伊勢貞興)已來(下)三十余人打死了、織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、二条屋敷(下御所)日向守、放火了、首共本能寺ニ被曝了、【
言経卿記一
、天正十年六月十三日条】
光秀は山崎で合戦、すぐに敗北し、伊勢貞興(元、室町幕府の政所執事)以下三十余人が討ち死にした、織田信孝・羽柴秀吉以下は南方より北上し、合戦に及んだ、下御所は光秀によって放火された、(光秀らの)首は本能寺に晒された
十三日ニ於山崎表かつせん(合戦)あり、惟日まけられ、勝龍寺(山城乙訓郡)へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗(ばかり)かけられ候、【
宗及茶湯日記他会記
】
天正十年六月十三日に山崎付近で合戦があり、光秀は敗北し勝龍寺に入った、夜に入り城を出たが(坂本に退却する)途中で果てた、首は十四日に、本能寺の秀吉の元に、三千程の首と共に届けられた