【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 丹波口]
京都府京都市下京区朱雀分木町
参考
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地名・史跡名 丹波口
]
丹波口石碑
京と旧山陰街道との出入り口に当たる丹波口は、七条千本付近にありました。
現在の中央卸売市場第一市場の南側に当たります。
天正十年六月二日未明に、明智勢はこの丹波口を通って京に入ったと考えられます。
(天正十年六月一日)夜半(丹波亀山を)出発し、都に着いた時すでに明方であった。【
イエズス会日本年報
(1582年追加)】
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。【
信長公記
、天正十年六月一日条】
六月一日、夜に入り、老の山へ上り、(下って沓掛に至り、そこを)右へ行けば山崎天神馬場、そこから摂津の国にいたる街道である、左へ下れば京に至る道である、ここを左へ進み、桂川を越えて、ようやく夜も明ける頃になった
碑には、
是より洛中荷馬口付のもの乗へからず
これより京市中(洛中)、荷馬は(乗っているようであれば降りて)手綱(たづな)を取り、(市中で)乗ってはならない
とあります。
「乗ってはならない」のは、あくまでも「荷馬(荷物を運ぶ牛馬)」で「口付(口取り、牛馬の口に付けた綱を引く人)」ということです、ね。
丹波口石碑
石碑の右側面には、
平成二十年五月吉日
京都五月村クラブ建立
とあります。
写真は、建立されて五カ月後、ということになります。
丹波口から西を望む
丹波口石碑から西を望んだところです。
写真奥方向が旧山陰街道で、桂川からここまで30-40分程でしょうか。
天正十年六月二日未明、明智勢はここを矢印の方向へ進んだものと思われます。
山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申し候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺といふところもしり不申候。【
本城惣右衛門自筆覚書
】
山崎(京都府乙訓郡)に向かって進んでおりましたが、意外にも、京へ(向かう)との指示がありました。我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。本能寺がどこにあるかも知りませんでした。
銃は皆火縄に点火して引金に挟むことを命じ、鎗も整へさせた。部下はこれが何のためであるか疑ひ、或は信長の命により明智が信長の義弟三河の王(家康)を殺すのであらうと考へた。【
イエズス会日本年報
(1582年追加)】
どうやら、多くの兵は、何のために行軍しているのか、知らされていなかったようです。
丹波口から東を望む
丹波口石碑から東を望んだところです。
ここから洛中で、七条大路(七条通)となります。
正面に見える陸橋は山陰本線で、左手へ800m程進むと丹波口駅があります。