【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 勝龍寺城]
京都府長岡京市勝龍寺
参考
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地名・史跡名 勝龍寺城
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勝龍寺城
勝龍寺城の北東側からの景観です。
この勝龍寺城公園にある説明板の「勝龍寺城」についての説明は以下のようなものです。
この城は、暦応2年(1339)に細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にありました。
応仁・文明の乱(1467〜)では西岡地方における西軍(畠山義就)の拠点となり、戦国時代になると、永禄11年(1568)に織田信長が上洛し西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ、堅固な城に改修しました。天正10年(1582)の山崎の合戦では明智光秀が本拠としたが、落城しました。
ところで、この城は天正6年(1578)に光秀の娘玉(のちの細川ガラシャ)が16才で長男忠興のもとに輿入れしたところで、歴史とロマンを秘めた城として全国的に知られています。
この跡地が管理棟、櫓や庭園などを備えた都市公園の姿に復興しました。
在所之構普請、白川・浄土寺・聖護院人足合力也、
日向守敵歟、自山崎令出勢、於勝龍寺西足軽出合、在鉄放軍、此近邊放火、【
兼見卿記(別本)
、天正十年六月十二日条】
白川・浄土寺・聖護院などから人手を集め、淀城の改修が行われた、(光秀は、前日、本陣としていた下鳥羽に戻り、淀城の改修に着手した)
光秀の敵方か、軍勢が山崎より寄せて来た、勝龍寺の西方で(出勢してきた軍と明智軍の)足軽同士が出会い、鉄砲の打ち合いとなった、近辺に火がつけられた、
在所之構、南之外堀普請、白川・浄土寺・聖護院三卿之人足合力也、自攝州山崎表へ出足軽、勝龍寺之西ノ在所放火、此義ニ近可衆驚、止普請各皈在所、【
兼見卿記(正本)
、天正十年六月十二日条】
白川・浄土寺・聖護院の三郷(村)から人手を集め、淀城南の外堀改修が行われた、摂津から山崎へ足軽が寄せて来て、勝龍寺の西方で放火を働いた、近くにいた人はこれに驚き、普請を中止し、それぞれの在所に帰った、
十三日ニ於山崎表かつせん(合戦)あり、惟日まけられ、勝龍寺(山城乙訓郡)へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗(ばかり)かけられ候、【
宗及茶湯日記他会記
】
天正十年六月十三日に山崎付近で合戦があり、光秀は敗北し勝龍寺に入った、夜に入り城を出たが(坂本に退却する)途中で果てた、首は十四日に、本能寺の秀吉の元に、三千程の首と共に届けられた
勝龍寺城管理棟
南側から公園に入ると左手に、北側から入ると正面に、この管理棟が見えます。
二階が資料展示室になっています。
勝龍寺城多聞櫓
城内から見た公園北側の多聞櫓です。
「多聞櫓」は「たもんやぐら」と読み、城の石垣の上に築いた城壁を兼ねた建物を指します。
この多聞櫓は単なる塀ですが、塀自体が細長い部屋状になっている多聞櫓は、武器や食糧などの倉庫としても利用しました。
永禄10年、松永久秀が大和国に築いた多聞城で始めて設けられたことから「多聞」の名があります。
勝龍寺城多聞櫓への階段解説板
多聞櫓の近くには解説板があります。それには、
多聞櫓への階段
本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ四メートルの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が七段造られていた。
土塁の上は一辺が10メートル四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上にのびる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。
平成四年三月
長岡京市
とあります。
勝龍寺城隅櫓
勝龍寺城北東隅の隅櫓です。
隅櫓は、多聞櫓をつなぐようにして、曲がり角に設けられた櫓です。
通常、多聞櫓よりも高く、倉庫として利用する他に、見張櫓としての役目もありました。
勝龍寺城井戸跡
勝龍寺城内にある井戸跡です。
勝龍寺城井戸跡由緒書
井戸跡の傍に由緒書があります。由緒書には、
井戸跡(本丸)
城にとって最も大切な井戸は、本丸内から四か所で発掘された。そのうち、この井戸を含め三か所が細川藤孝による城の改修時のものであった。
井戸は直径〇.九メートル、深さ二メートルで、底に太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げた立派なもので、発掘調査中にもこんこんと水が湧いていた。石には土塁の石垣にも使われた石仏や五輪塔などが含まれていた。
井戸の周囲には、溝や石組みの水溜めが造られ、当時の生活の一部を知ることができた。
平成四年三月 長岡京市
とあります。
勝龍寺城細川忠興・玉像
訪れたのは、ちょうど、「ガラシャ祭り(明智光秀の娘たまの洗礼名)」が間もなくという時期で、聞くところによると、平成4年11月に第一回が行われ、以降、毎年、11月の第二日曜日に開催されるそうです。
天正二年甲戌正月、藤孝君を始諸将岐阜江至、年頭の賀を述らる、同十七日御饗応有、藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井・畠山・中川・閉地・関・分部・平塚等なり、此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、藤孝君は忠興君の剛強に過ると言を以御辞退被成候得とも、信長公よりも教誡を加えらるへき旨にて再三仰によつて、与一郎君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる、其外諸士の不和を解しめて又光秀に被仰候は、汝を西国征将となすへし、因茲先丹波を征伐すへし、然らは長岡も倶に趣へしと有て御暇を給はり候、【
綿考輯録
第一巻 巻三】
天正二年正月、藤孝君はじめ諸将が岐阜に集まり、(信長に)年賀を述べた。同十七日に饗応があり、藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井順慶・畠山・中川・閉地・関・分部・平塚等であった。この時、信長は、光秀の四男を筒井順慶の養子とし、光秀の娘を織田信澄(信長の弟勘十郎の子)に嫁がすよう指示があった。また、藤孝君には光秀と縁家となるよう命があった。藤孝君は、息子忠興は剛強過ぎる(まだ躾が十分でなく、とても結婚できるような子ではない、というような意味合いでしょうか)と辞退したが、信長は、自分からもよく言って聞かせるからと再三にわたって勧めるので、与一郎(忠興)と光秀の息女(玉、後のガラシャ)の婚約を承諾した。その他、(信長が指示して)諸将の不和を解き、また、光秀には西国平定の主将とする、よってまずは丹波を平定するよう命があった。そういうことなので、長岡(細川)も一緒に(丹波を平定)に赴くようにとの命があり、暇を貰った。
青竜寺にて御婚礼有、十六歳ニ而御夫婦御同年也(御前様御名お玉様、後ニ伽羅奢様と云、御母ハ妻木勘解由左衛門範熈女也)、【
綿考輯録
第二巻 巻九】
青竜寺(勝龍寺)で(細川忠興と光秀娘玉の)婚礼が行われた、二人とも十六歳の同い歳である(嫁がれた方は名前を玉といい、後のガラシア様といい、母は妻木範熈の娘)
忠興君御室家ニ向て、御身の父光秀は主君の敵なれハ、同室叶ふへからすとて、一色宗右衛門と云浪士并小侍従と云ふ侍女此二人計を付て、丹波之内山中三戸野(一書丹後国上戸村の名)と云所へ、惟任家の茶屋有しに送り被遣候、御内室様此上ハとて御髪を切せ給ひ、小侍従も同く髪を切けると也、其比の事にや光秀の許ニ被仰越けるハ、腹黒なる御心故に自らも忠興に捨られ、幽なる有様也と恨られ候と也(明智軍記ニ此御離別之時ニ御添被遣者ハ坂本より付来りける池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門と云々)、【
綿考輯録
第二巻 巻九】
(本能寺の変後)細川忠興は、妻(光秀娘玉)に、あなたの父光秀は主君(信長)の仇である、そのため、このまま同居することはできない、と告げて、一色宗右衛門という浪士と小侍従という侍女二人ばかりを付き添わせ、丹波の山中の三戸野(一書に丹後国上戸村の名がある)という所に惟任家(明智家)の茶屋があり、そこに送り届けた、玉は、それならばと髪を切り、小侍従も同じように髪を切ったという、玉は、その旨を光秀のところに伝えたが、その腹黒な行いに忠興からも捨られ、情けないことだと恨んだという、(明智軍記には、この時に付き添ったのは、坂本から一緒にやって来た池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門とある)
細川忠興ノ妻室ハ、光秀第三ノ娘ナルヲ、二八ノ春ノ比、江州坂本ヨリ迎テ、早四年相馴(ナレ)タリ。容色殊ニ麗ク、歌ヲ吟シ、糸竹呂律(リヨリツ)ノ弄(モテアソビ)モ妙(タエ)ナリケリ。舅兵部太輔藤孝ハ、歌道ノ達人ナレバ、数寄ノ道同機(ドウキ)相求ル習ニテ、一人最愛(ヒトシホイトヲシミ)思ハレケリ。又、父ガ不義ニ替(カワ)リ、貞女ノ志シ正シキニ依テ、与市郎モ妹背(イモセ)ノ契リ深カリケレトモ、忠義ノ道黙止(モダシ)ガタキニ付、互ニアカヌ夫妻ノ中ヲ、涙トトモニ、離別ニ及ブ心ノ程コソ痛ハシケレ。【
明智軍記
】
細川忠興の妻は、光秀の三女で、(忠興)二十八の春頃に、近江坂本(の光秀のところ)から迎えて四年が過ぎた。姿かたちが麗しく、歌もよくし、箏・琵琶などの弦楽器(糸)と笙・笛などの管楽器(竹)にも長けていた。舅の藤孝は歌の達人で、(達人は)同じ趣味を持つ人を求める習い通り、一入(ひとしお)いとおしく思われていた。また、父(光秀)が不義を行っても、貞女として申し分がないことから、忠興(与市郎)も夫婦の契りを大事にしたいと考えたが、忠義に外れた行為(光秀が信長を倒したこと)を黙視(黙止)することはできず、互いに望まない、涙を流しながらの離別は、何ともいたわしい。