【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 坂本城址公園]
滋賀県大津市下阪本1丁目
参考
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地名・史跡名 坂本城
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坂本城縄張図
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坂本城址公園坂本城址碑
坂本城は、比叡山焼き討ちの後、信長から近江滋賀郡を与えられた光秀が、元亀2年末から翌3年始めの時期に築城を開始し、元亀4年6月28日乙卯(1570年7月21日)に完成し、以降、本能寺の変で斃れるまでの間、光秀の居城となります。
12年後の天正10年(1582)、安土城にあった秀満は、光秀の山崎での敗報をうけ、坂本に戻り、城に火を放ち、光秀の一族共々自害します。
その後、丹羽長秀が再建しましたが、天正14年(1586)、後の城主浅野長吉が大津城を築城したことにより廃城になりました。
坂本城址公園(滋賀県営都市公園湖岸緑地・北大津地区)の入口に立つ、坂本城址の碑です。
実際の坂本城は、もう少し北にありました。
坂本城址公園案内板
坂本城址公園の中に立つ案内板です。案内板には、
天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝、坂本に封じた。
築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。
なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。
とあります。
惟任日向守(光秀)へ爲礼坂本へ下向、御祓・百疋遣之、於小天主(守)對面、【
兼見卿記(別本)
、天正十年正月廿日条】
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を届けた。小天主で対面した。
爲(衍カ)惟任日向守(光秀)爲礼坂本へ被(マヽ)下、御祓・百疋持參、面會、於小天主(守)有茶湯・夕餐之儀、【
兼見卿記(正本)
、天正十年正月廿日条】
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を持参した。面会し、小天主で茶湯と夕食。
坂本城址公園明智光秀像
高さが5m程でしょうか、光秀の像があります。
公園入口の坂本城址碑にも、この光秀像にも、花が供えられていました。奇特な方がいらっしゃるのですね。それだけ、ここでは光秀が慕われている、ということでしょうか。
坂本城址公園明智光秀業績碑
光秀像の足元に「業績」と題した石碑があります。碑には、
明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ごろから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ころ横山城を攻めたあと、城の大改造をを行ない明智にちなんで福智山と名づけ後に福知山城となった。いまも福知山踊りには、光秀を偲ぶ歌がうたわれている。
とあります。
坂本城址公園明智光秀歌碑
像の右側に、光秀の歌碑があります。
われならで誰かは植えむ 一つ松心して吹け 志賀の浦風 光秀
坂本城を築いた時に唐崎の松(坂本城から1.5km程南にあります)を詠んだ歌で、出典は『常山紀談』だそうですが、残念ながら未読です。
ここにも光秀の略歴が刻まれています。それには、
明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永禄十年(一五六七)四十歳ごろ織田信長の家臣となる。
元亀二年(一五七一)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。
平成七年三月吉日 下阪本学区まちづくり推進協議会
とあります。
坂本城址公園石垣
琵琶湖の湖岸から50m程のところに、この石垣はあります。
坂本城の遺構というよりも、後世に作られた護岸用の石積みのように思います。
坂本城址公園から琵琶湖を望む
正面の山は三上山で、その美しさから近江富士とも呼ばれます。
この三上山の左手方向に安土城がありました。
坂本城址公園石垣
公園を南に進むと、七本柳と呼ばれる場所で、ここにも石垣のようなものがあります。
やはり護岸用の石積みのようです。