【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 西教寺明智家関係墓碑]
滋賀県大津市坂本5-13-1
西教寺明智光秀とその一族の墓
西教寺本堂に向かって左手に「明智光秀とその一族の墓」があります。
いかにも光秀好みの墓のように感じられましたが、いかがでしょうか。
右側の木柱には、
爲□□公一門宗徒併明智□陣没之□士霊位追福菩□(□は判読できませんでした)
その左側の木柱には、
坂本城主
明智日向守光秀とその一族の墓
天正十年六月十四日(一五八二)没
秀岳宗光禅定門
更にその左側の墓石には、
秀岳宗光大禅定門
南無阿弥陀仏
天正十壬午年六月十三日
とあります。
西教寺明智光秀とその一族の墓解説板
墓の右手前に、解説板があります。それには、
坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓
織田信長が元亀二年(一五七一)九月、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き討ちした。西教寺も全山類焼の厄に遭った。すなわち元亀の平乱である。その後、再興に尽力したのは信長の将、明智光秀で、浜坂本に坂本城を築城、坂本城城主として坂本一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築、刻名入りの棟木も現存している。また天正二年(一五七四)仮本堂を完成し、現在の本尊(重文丈穴の阿弥陀如来)を迎えている。
それ以来、光秀の由縁はふかく、元亀四年(一五七三)二月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者十八名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(X子、ひろこ)の供養もされ、墓が安置されている。
天正十年(一五八二)本能寺の変のあと、山崎の合戦に破れて非業の最後をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。
爾来、当寺としては光秀の菩提為毎年六月十四日に光秀忌を営んでいる。この供養塔は左のように記されている。
秀岳宗光大禅定門
南無阿弥陀仏
天正十壬午年六月十三日
とあります。
西教寺X子の墓
明智光秀とその一族の墓の左手に、光秀の妻X子(ひろこ)の墓があります。
熙子は、妻木範X(のりひろ)の娘(子)とされます。或いは、妻木広忠の娘とも、・・・。
墓銘には、
南無阿弥陀佛三界万霊等(?)
とあります。
その左手に、X子の戒名(福月眞祐大姉)
為福月眞祐大姉霊□(□は解読できず)
とある卒塔婆が見えます。
西教寺X子の墓解説板
X子の墓の傍にある解説板です。これには、
坂本城主・明智光秀の妻
X子(ひろこ)の墓(光秀の子女、玉子嬢、細川ガラシャの母)
天正四年(一五七六)十一月七日寂
戒名 福月真祐大姉
作家の中島道子氏の「明智光秀の妻・X子」という小説序文に次のようにX子夫人のことが書かれている。
人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない愛惜を詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。
比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田又玄(ゆうげん)の妻に贈ったものである。
月さびよ 明智が妻の 咄せむ
芭蕉
まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。
とあります。
西教寺妻木一族供養塔
X子の墓の近くにこの供養塔があります。
【
明智光秀のすべて
】によれば、
妻木氏は土岐頼貞の末流で、美濃妻木城(岐阜県土岐市)に住した土豪。美濃出身で土岐氏の流れを汲むと伝えられる光秀と、血縁的にも近い間柄として、光秀配下の重臣として早くから取り立てられていた
とされます。
碑銘には、
濃州妻木十二代城主
妻木藤右衞門廣忠(明智光秀公妻X子の父)
濃州妻木(明智)一族供養塔
とあります。
ここではX子は広忠の娘となっていますね。
西教寺妻木一族供養塔解説板
妻木一族供養塔の傍にこの解説板があります。それには、
濃州妻木(明智)一族と西教寺
本能寺の変・山崎の合戦、坂本城の攻防等続く戦乱の中で、妻木城十二代城主妻木藤右衞門廣忠の兄弟三人が討死した。
また、一族郎党も多数討死していると言われている。
廣忠は天正十年(一五八二)六月十四日坂本城落城後明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬し供養した後、天正十年六月十八日にX子(廣忠の娘)墓前で自刃したと伝えられている。(寛政重修諾家譜巻第三百一)
當山、塔頭實成坊(たっちゅうじつじょうぼう)の過去帳によると、
天正二年五月十五日 梅岩廣秀禅定門(濃州明智三郎四郎)
天正三年六月十八日 圓光宗梅禅定門(明智殿幕下)
天正七年二月十日 宗普法師
天正七年十一月十二日 盛賢禅定門(濃州妻木)
天正七年十一月十二日 盛厳禅定門
天正十年六月十四日 秀岳宗光大禅定門(明智十兵衛尉日向守光秀)
天正十年六月十八日 一友宗心居士(濃州明智藤右衛門)
以上の方々が過去帳に記載されている。
山崎合戦後、明智(妻木)一族が坂本城を守る為に多数の兵士を引き連れ、琵琶湖畔坂本城を守り続けたが、秀吉の軍勢と戦い、ついに坂本城炎上と共に一門は自害したと言われている。
ここに妻木一族供養の為に岐阜県土岐市小島一晃氏が供養塔を寄進された。
とあります。