【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 亀山城]
京都府亀岡市荒塚町
参考
[
地名・史跡名 亀山城
]
亀山城址由緒書
【
探求!丹波亀山城
】によれば、
天正6年(1578年)頃から、(丹波平定に関わっていた)明智光秀によって築かれたと考えられます。
(築城に当たっては)明智左馬介が縄張を行い、本丸に天守閣・矢倉などを配置し、大門・木戸口の四方には大堀を掘ったといいます。
本能寺の変後、羽柴秀勝、小早川秀秋が入部して改築が行われ、更に、徳川期に入り、岡部長盛、藤堂高虎等が入って、最大規模の工事が行われました。
とありますが、築城の時期について、【
新修 亀岡市史
】は、
天正四年から五年に年が改まる前後から、亀山に城郭を築きはじめたらしい。
としています。
亀山城東側に立っている由緒書です。これには、
大本・天恩郷(丹波・亀山城址)
亀山城址は、現在、(宗)大本の境内地となっています。歴史は古く、天正三年(一五七五)織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀がこの地に城を築いたことに始まります。丹波を平定したものの、ここから兵を進めた同十年の「本能寺の変」はあまりにも有名です。
慶長十五年(一六一〇)、徳川家康が命じた「天下普請」で 藤堂高虎による五層の層塔型天守が出現、亀山城は近世城郭として完成し、亀山藩ができます。その後は、京都に隣接する山陰道の要衝として栄えました。
明治維新で藩は亀山県となり、明治十一年(一八七八)頃 亀山城は取り壊されます。建物の一部は寺院の山門などに再利用 石垣は京都鉄道(現・トロッコ列車)の鉄道工事用石材として大量に転用されたといいます。
大正八年(一九一九)、転売を経て荒廃した土地を大本が購入、石垣を積直し神苑として整備、「大道場」を開設しました。大正と昭和の大本弾圧事件で、敷地を没収され廃墟と化しますが、返還され今に至っています。
(受付申込みで城址の一部が見学できます) 「まち協
とあります。
亀山城二の丸石垣
東側(大手門側)から西に100m程進んだ辺りを右手に折れる道があります。万祥殿に続く道です。
その左側の石垣です。
穴太積ではなさそうですね。(光秀築城当時、全てが穴太積であったとも思えませんが)
ここは、二の丸と三の丸との間の堀に当たるところだろうと思います。
さて、光秀が坂本を発ち、ここ亀山に入ってからの経過は以下のようになります。
五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。【
信長公記
】
天正十年五月二六日、光秀は中国へ出陣するため坂本を発ち亀山城に入った。
次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで籤を取りたる由、申候。【
信長公記
】
天正十年五月二七日、光秀は亀山より愛宕山(愛宕神社)へ仏詣し、一泊した。光秀は、何か心に期すところがあったのだろうか、神前に参り、太郎坊の前で二度三度と御籤を引いたという。
廿八日、西坊にて連歌興行、
発句 惟任日向守
ときは今あめが下(した)知る五月(さつき)哉 光秀
水上(みなかみ)まさる庭のまつ山 西坊(西坊行祐)
花落つる流れの末を関とめて 紹巴(里村紹巴)
か様に、百韵(いん)仕り、神前に籠(こめ)おき、
五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。【
信長公記
】
天正十年五月二八日、西坊で連歌会を張行した。発句(最初の一句)は光秀であった。
(句部分略)
こうして百首を詠み、これを神前に納めて、五月二八日に亀山城に戻った。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助(秀満)、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐(利三)、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主(しゆ)となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草(みくさ)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老(おい)の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。【
信長公記
】
天正十年六月一日、夜になってから丹波亀山城において、光秀は逆心を企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐(いずれも明智家の重臣)に、信長を討って天下の主となることを告げ、亀山から(備中の秀吉を援助することになっていた)中国へは、本来であれば(篠山街道を使って、ほぼ現在の372号線)三草山越えするところを、引き返し、東向きに馬首を変え、老の山を登り、山崎から摂津(現在の大阪府の北部と兵庫県南東部)へ向かうと兵に告げ、談合した者(前出の四名)に先導するよう指示した。
六月一日、夜になり、老の山を登り、(沓掛で)右(南)へ行く道は山崎天神馬場に通じる道で、左(東)へ下れば京に出る道である。ここを左へ下り、桂川を越え、ようやく夜も明ける頃になった。
「三草越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、」とありますので、当初、兵には「三草山越えする」、つまり西に向かうと告げていて、そのように準備をしていたが、「反対向きの東に進むことを改めて指示した」、ということのように思います。
「引き返し」の部分ですが、「既に一部は西に向けて出立していて、それを引き返させた」と読むこともできますが、「談合の者どもに先手を申しつく」とありますから、勝手に先発することはないと思われますので、単に「うってかわって」というような意味であるような気がします。
亀山城本丸石垣
元の道に戻り、更に西へ100m程進んだ右手、堀(現在は空堀です)越しに本丸の石垣が見えます。
これも、どうやら、穴太積ではなさそうですね。
亀山城西の丸内生垣
更に西へ100m程進んだ辺りで、振り返ったところです。
この生垣の左手が本丸になります。
亀山城外堀南郷池
亀山城北側の南郷池です。嘗ての外堀に当たります。
右手の森が亀山城です。
明智光秀公築城亀山城址碑
南郷公園の近くに、この碑があります。
うかつにも、誰が、何時、どのような理由で建てたものか、調べてきませんでした。