【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 堀川通]
京都府京都市下京区
京都府京都市中京区
七条堀川から北を望む
明智勢は、七条堀川を左へ折れ、堀川小路(堀川通)を北上することになります(推定)。
この路の中央には大きな堀川があり、その両側を堀川小路(堀川通)が通っていました。
写真左手は西本願寺です。
本願寺は、信長生存当時は、大坂にあり、石山(或いは石山本願寺)と呼ばれていました。
当時の門主顕如は、信長の支配を嫌い、ことあるごとに対立していましたが、信長の度重なる攻勢に耐えられず、天正八年四月九日、信長に降り、石山を退去します。
ところが、この和議に反対したのが顕如の息子教如で、顕如を代表とする和議派と、それに反対する反和議派との対立が生まれます。
その後に様々な(というよりも、複雑な)経緯を経て、徳川家康の代になり、顕如の流れを汲む西本願寺と、教如の流れを汲む東本願寺が並立することになりました。
堀川五条交差点から南を望む
堀川小路(堀川通)と五条大路(五条通)の交差点から南(現京都駅の方向)を望んだところです。
堀川小路(堀川通)と五条大路(五条通)の交差点から南(現京都駅の方向)を望んだところです。
路の中央には大きな堀川がありました。
この堀川の両側に堀川小路が通っています。そのため、「小路」とはいいながら、小路二本分の道幅に堀川を加えた、かなり広い通りでした。
堀川五条交差点から北を望む
堀川小路(堀川通)と五条大路(五条通)の交差点から北を望んだところです。
五条大路(五条通)より北の、堀川小路(堀川通)の東側には塀があり、四条坊門小路(蛸薬師通)まで続いています。
明智勢は、丹波口から京に入り、七条大路(七条通)を東に進み、壬生大路(壬生通)や大宮大路(大宮通)や堀川小路(堀川通)などの交差点を左に折れ、北に向かったと思われます。
ただ、この堀川小路(堀川通)は道幅が広く、大軍が進攻するのに都合がよいのではないかと想像しています。
全体の位置関係は、[
本能寺周辺位置関係図
]を参照してください。
堀川通と蛸薬師通の交差点から北を望む
堀川小路(堀川通)と四条坊門小路(蛸薬師通)の交差点から北を望んだところです。
堀川小路(堀川通)は、堀川という川を挟むようにして両側に小路が二本走っていました。つまり、「小路」という名が付いていますが、実際にはかなり広い通りでした。
明智勢はここを右に折れ本能寺を目指したと思われます。