【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 本能寺]
京都府京都市中京区元本能寺町
参考
[
地名・史跡名 本能寺
]
蛸薬師通
堀川小路(堀川通)を右に折れ、四条坊門小路(蛸薬師通)に入ってすぐのところで、東を望んだところです。
右手は塀になっていたと思われます。
本能寺はここから100mほど先の左側にありました。
蛸薬師通から油小路通の交差部を望む
更に進んで、四条坊門小路(蛸薬師通)から東を望んだところです。
左右に走っている通りは油小路(油小路通)です。
その先の左に本能寺が見えます。
ここが事変の舞台となった当時の本能寺です。
現在は個人の住宅が立ち並んでいますので、プライバシー保護の観点から、支障がないと思われるものだけを掲載しています。
事情をご理解いただきますようお願い申し上げます。
下京六角与四条坊門、油小路西洞院中間方四町々事、雖
レ
為
二
沢村千松私領
一
相
二
副ヘ本証文数通
一
売渡候分明也、【
本能寺文書
永禄十一年九月四日付書状】
六角より四条坊門(蛸薬師通)、油小路より西洞院の一町四方、沢村千松の所有地であるところを(本能寺に)売り渡したこと、証文数通をもって間違いないこと証する。
前右府(織田信長、宿所本能寺)へ礼ニ罷向了、見參也、進物者被返了、【
言経卿記
、天正十年六月一日条】
(言経)は信長に礼を申し上げるために(本能寺に)向い、(信長に)面会した。(持参した)進物は(心づかいは無用とのことで)返された。
そして、六月一日未明、本能寺の変が起こります。
明智勢はここを二手に別れ、一隊は直進して南門(推定)へ、一隊は左に曲がり油小路を北へ向かったと考えられます。
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くびとり申候。【
本城惣右衛門自筆覚書
】
隊の中から、騎馬の二人が出て参りました。誰かと思えば、斎藤(利三)内蔵介殿の子息(と)小姓の二人が、本能寺の方に向かいましたので、我等はその後に続き、近くの町に入りました(広い堀川通を北上して蛸薬師通に入ったということではないでしょうか)。その(騎馬の)二人は北の方(油小路を北)に向かいました。我等は南の堀沿いに東に進みました。本道(西洞院通でしょうか)に出たところで、端のところに人が一人いましたので、すぐにその首を取りました。
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。
くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。【
本城惣右衛門自筆覚書
】
恐らく北門から入った(と思われる三宅)弥平次殿と母衣衆の二人が、「首は捨てろ」とおっしゃるので、堂の下に投げ入れ、本堂に入りましたが、広間には誰もいませんでした。蚊帳が吊ってあるばかりで、人はおりません。
庫裏の方に、下げ髪の白い着物を着た女がおりまして、この女を捕らえましたが、侍は一人もおりませんでした。(その女は)「上様は白い着物をお召しです」と言うのですが、(それが)信長様のことだとは知りませんでした。その女を斎藤(利三)内蔵介殿に渡しました。
信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【
信長公記
、天正十年六月一日条】
信長の宿所である本能寺を取り巻き、(明智)勢衆が四方より乱れこんだ。信長も小姓衆も、当座は下々の者が騒いでいるのだろうと考えたが、そうではなく、ときの声を上げて本能寺へ鉄砲を撃ち掛けた。これは謀反か、誰の仕業か、と信長が問うたところ、森乱丸は、明智の者と思われますと申し上げた。それを聞いた信長は「是非に及ばず」とのことだった。
宮殿(本能寺)の前で騒が起り、(中略)その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗ひ終って手拭で清めてゐたのを見た。而してその背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて薙刀Nanginata、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた。或人は彼が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。併し我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである。【
イエズス会日本年報
】
都に入る前に兵士たちに対し、彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃にセルペ(serpe、火気の部品の名称)を置いたまま待機しているようにと命じた(火縄銃に点火して引金に挟んだ状態で発射の命令を待たせたことを指す)。それはすでに述べたように一五八二年六月二十日(一日の誤り)、水曜日のことであった。兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達するや、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。【
回想の織田信長
】
在
二
三條柳水町
一
中古日藥宗本能寺在
二
斯處
一
織田信長公有
レ
事之地也爾後本能寺移
二
京極二條南
一
其跡古田織部正重能暫住
レ
之然後重能移
二
堀河三條南
一
附
二
與其跡於重能之從者茶人木村宗智
一
宗智慶長年中大坂陣時企
二
逆謀
一
依
レ
之宗喜磔
二
於下粟田
一其家被
二
没収
一
爾後茶屋中島長右衛門拜
二
受之
一
子孫至
レ
今住
レ
之 【
雍州府志
】
三條柳水町(実際にはもう少し南西)に、かつて(中古)日藥宗本能寺があった。信長公の事件(本能寺の変)があったところである。その後、本能寺は京極(現寺町通)二條南に移った。その跡には古田重能が暫く住んでいたが、その後堀河三條南に移ったため、重能の従者で茶人の木村宗智が入った。ところが宗智は大坂の陣の時謀反を企て、それにより宗喜(?)は下粟田で磔にされ、家は没収された。その跡は茶屋中島長右衛門に与えられ、今に至ってもその子孫が住んでいる。
(天正十年)七月廿日御上洛、信長公の追善の為、本能寺焼迹に仮屋を設け、百韻の連歌御興行被成侯、連衆其比名を得し人々也、門跡公武僧俗の差別なく来会せし、其費用悉く藤孝君御いとなミ被成侯、【
綿考輯録 第一巻 巻四
】
(細川忠興は)七月二十日に上洛。信長公の追善の為、本能寺の焼け跡に仮屋を設けて百韻の連歌興行をなされた。連衆(連歌興行に加わった人)は著名な方であった。門跡公武僧俗の別なく追善に訪れた。その費用は藤孝(忠興の父)が負担した。
この付近は、明智勢でごった返していました。
油小路(油小路通)には、川が流れていたと考えていますが、今のところ、裏付ける史料を見付けることができません。
本能寺跡石碑
油小路(油小路通)を右(南)に折れてまもなくの左側(東側)にこの石碑があります。碑には、
本能寺跡記
応永二十二年(一四一五)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(一九二九)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享五年(一四三三)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文五年(一五三六)天文法乱によって焼失、天文十四年(一五四五)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移轉、壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正十年(一五八二)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正十七年(一五八九)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。因みに「本能寺」は度々火災に罹りたるをもって「(能の右側の)ヒヒ」と重なる(「ヒが重なる」つまり「火難が繰り返される」)を忌み、能の字を特に「(能の右側を)去」と書くのが慣わしである。
大本山 本能寺
とあります。
ただ、この碑のある位置は、当時の本能寺とは塀を隔てた位置に当たり、少し無理があるように思われます。
本能寺址石碑
四条坊門小路(蛸薬師通)と小川通の交差部南西側にこの石碑があります。
本能寺には南門があったのではないかと考えています(推測)が、丁度その付近でしょうか。
ただ、当時の四条坊門小路が、現在の蛸薬師通と同じ位置であったとすると、この石碑のある辺りには塀があったと思われます。
西洞院通から蛸薬師通の交差点を望む
西洞院大路(西洞院通)から南を望んだ風景です。
左右に走っている通りは四条坊門小路(蛸薬師通)です。
西洞院大路(西洞院通)は、大変広い通りで、通りの中央には西洞院川が流れていました。
西洞院通の東側には塀が、蛸薬師通に沿って木戸門や塀がありました。
写真右には本能寺の塀が見えます。