【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 粟田神社]
京都市東山区粟田口鍛冶町一番地
参考
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地名・史跡名 粟田神社
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粟田神社公式ウェブサイト
]
粟田神社参道入口の鳥居
三条通に面した粟田神社参道入口に建つ鳥居です。
この先、70-80mの参道が続きます。
粟田神社入口鳥居
参道を抜けると、通りに出ます。
左右に延びている道が、旧東海道・東山道だそうです。
正面に鳥居があります。
この鳥居をくぐって、60-70mの階段を登り切ったところが粟田神社です。
粟田神社由緒書
粟田神社入口の鳥居の右側に由緒書があります。由緒書には、
京都指定有形文化財
粟田神社 三棟
本殿・幣殿・拝殿
粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞嗚尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(一一一三〜一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼倶が再興したという。
本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年 (一八二三)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(一七〇三)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
平成八年四月一日指定
京都市
とあります。
文中で使われている以下の用語は、【
辞典・用語
】の[
日本史用語
]に収録してあります。
「
産土神
」 「
牛頭天王
」 「
座主
」 「勅=
勅命
」 「
本殿
」 「
幣殿
」 「
桁行
」 「
梁行
」 「
拝殿
」 「
入母屋造
」 「
妻入
」
由緒書中にある吉田兼倶は、光秀とも親交のあった吉田兼見の、五代前の吉田神社当主です、
この吉田兼見は、【
兼見卿記
】の著者で、この日記は当時を知るために大変貴重な記録です。
粟田神社本殿
粟田神社本殿です。
粟田神社の創建由緒に、
当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。
とあります。
写真を撮り忘れてしまったのですが、本殿手前左手からは北の方向を眺望することができます。
京を離れる前に、京の街並みや山並みを目に焼き付けるには、絶好の眺めでした。