【資料 本能寺の変】 [本能寺の変 ゆかりの地 明智藪]
京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
明智藪方向板
地下鉄東西線醍醐駅から、徒歩で15分程でしょうか。実際には迷ってしまって30分程も掛かってしまいました。
明智藪は、とても分かりにくい場所にあります。
途中にこの方向板があるのですが、ここまでが分かりにくい上に、これから先も分かりにくいです。
ただ、付近は住宅地ですので、個人的には、ご迷惑の掛からない、この程度が良いのではないかと思います。
明智藪碑
明智藪の碑です。
碑の右側面には、「天正十年六月十三日 光秀横死」と彫られています。
個人のお宅の庭先のような場所に建っています。
初めは、お邪魔しても良いものかどうか、迷ってしまいました。
明智藪由緒碑
明智藪碑の隣に建つ石碑です。これには、
明智藪(あけちやぶ)
近江坂本城主明智光秀は一五八二年(天正十年)六月二日早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。
この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
平成三年二月吉日
京都洛東ライオンズクラブ建立
とあります。
其後播州より羽柴攝州有岡城入城アリテ、ソレヨリ三七郎殿一味ニ、山崎表へ打上リ、日向方ノ衆、十三日ニ山崎ニテ及一戰。日向守キリマケ、敗軍シテ一万計討死。日向守ハ山科ニテ一揆ノ手へ討捕之。【
宇野主水日記
】
その後(光秀が信長を討った後)、秀吉は(備中高松城から東上し)播磨(播州、現兵庫県)を経て摂津有岡城(現兵庫県伊丹市)に入る、織田信孝(三七郎、信長の三男)が一味に加わり、山崎に進んだ、光秀勢は十三日に山崎で秀吉軍と一戦に及んだが、敗北し、一万程が討ち死にした、光秀は山科(京都府山科区)で一揆に遭い討たれた