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[資料 本能寺の変][史料にみる本能寺の変][織田信長宿所本能寺]


明智軍、本能寺を囲む

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。
(中略)
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くび(濁ママ)とり申候。[本城惣右衛門覚書]

信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。[信長公記(桑田)]

天王寺(本能寺の誤り)と称する僧院の附近に着いて、三万人は天明前僧院を完全包囲した。(中略)わが聖堂は信長の所より僅に一街を距てたのみであった故、キリシタン等が直に来て、早朝のミサを行ふため着物を着替へていた予[パードレ・カリヤンならん]に対し、宮殿の前で騒が起り、重大事件と見ゆる故暫く待つことを勧めた。その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は街の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こった何らかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリアン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。[回想の織田信長]

二日ノ曙ニ、明智左馬助光春ヲ武将トシテ、其勢三千五百余騎、本能寺ノ館(タチ)ヲ百重千重ニ取巻ケリ。又明智治右衛門光忠ヲ頭ニテ、軍兵四千余騎、二条城・同妙覚寺ヲ取囲(カゴ)メリ。総大将日向守光秀ハ、諸軍ノ命ヲ司(ツカサドツ)テ、二千余騎ヲ随へ、三条堀川ニ扣(ヒカ)ヘタリ。[明智軍記]

明智軍、本能寺に突入する

それより内へ入候へバ、もんハひらいて、ねずミほどなる物なく候つる。[本城惣右衛門覚書]

明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がなかった[イエズス会日本年報(1582年追加)]

明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当っていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに低抗する者はいなかった。[回想の織田信長]

本能寺方ニハ、是ヲ夢ニモ不知(ラ)ケネニヤ。夜既ニ明ニケリトテ、総門ノ扉ヲ啓(ヒラ)キケル黎(コロヲヒ)ナリシニ、敵門外近ク進来リ、鉄炮ヲ打掛、開ケルヲ幸(サイハイ)ト門ノ内ヘ責入。此節、御内ノ兵僅(ワヅカ)九十余人也。其中ニ、森蘭丸長康ハ、鶴ノ丸付タル緇梅(クリムメ)ノ帷子ヲ著(チヤク)シ、太刀堤(ヒツサ)ゲ奥ノ方ヨリ表ノ椽行(エンガハ)へ、立出テ、三ノ是ニ御座アル所ナルニ、何者ナレバ斯ル狼藉ヲ致スラント、高声ニゾ呼(ヨバヽ)リケル。寄手ニハ、三宅孫十郎・四王天又兵衛・藁地甚九郎ト声々ニ名乗、真先ニ進タリ。[明智軍記]

本能寺での戦闘

其くび(門外で討ち取った頸)もち候て、内へ入申候。さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハうちすてと申候まゝ、だう(堂)の下へなげ入、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。そこにてくび又一ツとり申候。其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。其折ふしハ、もはや人かず入申候。それヲミ、くずれ申し候。我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。其時、共ニくび以上二ツとり申し候。[本城惣右衛門覚書]

(明智軍は)内部に入って信長が手と顔を洗ひ終って手拭で清めてゐたのを見た。而してその背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて薙刀Nanginata、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其の後、御鎗(やり)にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深入り給い、内よりも御納戸の口を引き立て、無情に御腹を召され、[信長公記(桑田)]

或人は彼(信長)が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。併し我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである。
かくの如く速に信長を斃し、また官中に宿直してゐた少年貴族数人を殺した後、かの寺院を悉く焼いた。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

(信長は)そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。[回想の織田信長]

二日之朝五ツ時分御殿に火をかけ。信長樣被遊御自害候。[細川忠興軍功記]

二日、戊子、晴陰、
一、夘刻前右府本能寺、へ明智日向守(光秀)依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、同三位中將(織田信忠)妙覺寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王御所)へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒(貞勝)已下悉打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻ニ上御所(内裏)へ御渡御了、言語道斷之爲躰也、京洛中騒動、不及是非了、[言経卿記一]

本能寺から妙覚寺へ

二日、戊子、早天自丹州惟任日向守(光秀)、信長之御屋敷本應(能)寺へ取懸、即時信長生害、[兼見卿記(別本)]
二日、戊子、早天當信長之屋敷本應寺(能)而放火之由告來、罷出門外見之処治定也、即刻相聞、企惟任日向守(光秀)謀叛、自丹州以人數取懸、生害信長、[兼見卿記(正本)]

すでに都では、しだいに事件が明らかとなり、駈けつけた数名の殿は内部に入ることを望んだが、兵士たちが街路を占拠していたので、それが叶わず、嗣子(信忠)の邸宅(複数)に向かって引き返して行った。[回想の織田信長]

對信長公ニ明智光秀逆心ノ刻。光秀筒井へ使ヲ被指越ハ。信長公ニ怨甚依有之。本能寺へ押寄セ御腹メサセ。其ヨリ二條ノ屋形へ取詰。[大和記]




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